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漁法の工夫

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 生産を向上させるために漁法の改良がせまられた。和人鮭漁法は大半が網によったが、支流では零細出稼人の擉(やす)による鍵引漁も認められた。このほかハッサム川とサッポロ川にそれぞれ阿部屋のウライ(簗漁(やなりょう))が置かれた。これは文政元年(一八一八)から設置されていたが、当初はアイヌの漁法をまねた簡略なものだったろう。昭和六十一年発寒川旧河道の発掘調査による例(北区新琴似一一八〇番地先、K四八三遺跡)は、手のこんだ複雑で頑丈な構造に改造されてきたことを物語っている。

写真-13 ハッサムウライ跡の発掘調査

 その報告によると、河道にミズナラ、カシワやヤチダモを板棒状に製材した杭を、整然と列状に打ち込んでいる。これが二列三列に重なり川を横断し、水流に平行斜行の杭列もあるから、何年にもわたり修復され、を捕獲場にさそう魚道を備えていたと考えられる。長さ一~一・七メートルの杭が九〇〇本も発掘されたが、みなその先端を鋭く削り、反りのないようていねいに製材されているのを見ると、高度な加工技術をもった人が多くの労力と時間をかけたことがわかる。これをウライと呼ぶのに躊躇するが、明治初年までこうした施設による鮭漁がなされたのである。
 網と舟は新規出稼人にとって緊急に用意しなければならない必須の漁具である。浜の引場で使う大型のものは長さ五〇〇尋(ひろ)とも八七〇間ともいい、漁夫は一統に、五、六〇人がいる。川筋の小網は中心の袋部から片側で七〇~一〇〇尋、両方の長さにして一五〇~二五〇間のものが多く、一五~二五人程で作業できた。漁獲高を増すため、網の大型化には限度があり、目の粗い榀網を麻糸網に換えたり、川口部でも大網を使うなどの工夫が施される。
 安政五年、イシカリに来て漁事を視察した水戸藩士生田目弥之介は、その改善の必要を感じ次のように藩へ報告している。
(前略)土風とは乍申、御国浜方(水戸領のこと)抔とは甚相違仕、如何にもゆるりといたし、足袋わらんし、喰ひ煙管、懐手抔にて人網引いたし、又長網を一艘の船にて、かひを以て配迴し、艫は用ひ不申、兎角迴り遠に相見候間、も余程洩れ可申、此上は御国浜方の漁夫御指下、且網のシトも甚軽く、シト縄も一本にて、其間より砂をせり洩し可申候間、網共に御国風を以御試相成候はゝ、取上け高相過可申と評議仕候。
(生田目氏日記)

 この頃、越後地方で使われていた三本合網が導入されるが、勝右衛門ら大津浜グループは、常陸地方で江戸時代前期から鰯(いわし)漁に使っていた八坂網(はっさかあみ)を持ちこもうとイシカリ役所箱館奉行所に働きかけた。これは従来の曵網と違う旋網の一種で、三艘の舟を用い、うち二艘に網を分載して漕ぎ出し、両舟の間に網をおろして左右にわかれ、魚を囲んで引き揚げる漁法。だけでなく、これで沖合いの鯡も獲れないかと考えたらしい。西蝦夷地では大網に反対する網切騒動の直後だけに、奉行所は容易に許可を与えず、使用を認めるのは万延元年(一八六〇)のこと。

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図-3 八坂網(日本水産捕採誌より)

 こうした漁法の改良により、改革後、イシカリ鮭の漁獲高は逐年増加していった。