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役鮭

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 イシカリ役所網持出稼人に課した現物納の営業税を役鮭と呼ぶ。当初の予定ではこの率を漁獲の一五パーセントとしたが、実施段階で①一日一統の網で一〇〇束(二〇〇〇尾)内外の漁獲のある引場は三七役(税率三割)、②同じく五〇束内外は二八役(税率二割)、③二五束内外は一割半役、④一〇束内外は一割役、⑤人の給代にも不足する引場は無引にする基準をたてる。実際はサッポロフトを境に、その下流は三七役、上流を二八役として徴収したから、阿部屋請負時代に山田家が支払った出稼役率を踏襲したことになる。但し、新規開発の引場は一年のみ五分減(三七役が二割五分)とし、ほかに役務による軽減を特例として認めた。これは改革が役鮭の確保を重要課題にしたことを物語り、イシカリ改革の理想と現実の差とみなされよう。
 引場の割渡しを受けた者はイシカリ漁場条目に押印して、この納入を義務づけられた。役鮭八カ条(市史一二五頁)は、並の大きさのを塩引きにして納めるよう定めたが、出稼人の負担が大きすぎるとし「大魚、ヒン魚不相除、大小入交りの儘にて上納」(市史六二頁)したいと願い出た。また、引場により品質差があり、サッポロ川の一〇〇本とハッサム川の一二〇本が同価にみなされ、サッポロ川のものはイシカリの中等品扱いされたのである。
 ではどのくらいの役鮭(御手料場分を含む)が改役所に収受されたのだろう。年ごとの豊凶に左右されるのは勿論だが、平年三〇〇〇石を見込んだ。安政六年を例にすると、表7のように網持出稼人分五八一一束、御手料場分(アイヌ漁)三三二四束、計九一三五束余(三〇四五石)が役鮭である。その後、漁獲高の増加に見合う役量の上昇を示さないから、税率軽減策がとられるようなことがあったかも知れない。すなわち、元治元年(一八六四)三一五二石、翌慶応元年三二八九石と、改革時に予定した三〇〇〇石内外に一定しているのが注目される。
表-7 安政6年 鮭の漁獲高・役高
 漁獲・役
網主
漁獲高 役高
量 (束) 比 (%) 量 (束) 比 (%)
阿部屋 9,819 36.9 2,351 25.7
山田家 5,600 21.1 1,533 16.8
勝右衛門 1,140 4.3 286 3.1
五三郎 869 3.3 225 2.5
孫兵衛 824 3.1 184 2.0
半兵衛 671 2.5 201 2.2
三太郎 560 2.1 112 1.2
三国屋 510 1.9 127 1.4
その他 3,274 12.3 789 8.7
(小計) 23,270 87.5 5,811 63.6
アイヌ 3,324 12.5 (3,324) (36.4)
合計 26,595
(8,865石)
100 

9,135
(3,045石)
100 

出稼人荷物高     17,459束14尾(5,820石)
イシカリ役所荷物高  9,135束16尾(3,045石)
束以下は切りすてたので、合計は一致しない。    
村山家資料『石狩秋味惣引高幷歩訳共調子扣』による