写真-14 ホリカムイにおける鮭漁
(明治の写真だが、改革時の和人引網をしのばせる)
新規の出稼だから施設設備に多くの投資をともなう。まず川口近くに屋敷地の割渡しを受け、イシカリにおける足場となる元小家と付属蔵を建築、さらに浜中に漁小家、切り蔵、筋子蔵等を造った。この漁小家は万延元年七月二十二日の出火で焼失した。網と船の準備にも多額の金が必要で、出稼初年は古い網を使用したから「千本余入り候節、袋切れ残念」(生田目氏日記)だったという。こうした基礎的な投資のほかに、各年の経常費が加わる。網一統に二〇〇両はかかるとされた。
勝右衛門を中心とした大津浜グループに、漁業技術の知識は一応あったと思われるが、資金力は皆無に近かったろう。いわば他人の懐をあてにしてイシカリに乗り込んだのだから、初年から苦しいやりくりを強いられた。水戸藩は大津浜グループに一〇〇〇両を貸与し経営を軌道にのせようとするが、この程度で新規の基礎は安定しえない。当初、仕込みなどを受け持った松前の商人山形屋八十八は、採算がとれず漸次手をひき、那珂湊商人がこの肩がわりをしなければならなかった。しかし生産量の低迷からぬけ出すことができず、万延元年勝右衛門は引責隠居を決意するが、水戸藩はこれを慰留した。
勝右衛門にはイシカリ川中上流地域での新漁場開発という大役が課せられていたが、わずかに手がけただけで成果を全く上げえず、いわんやイシカリ内陸部と日本海岸を結ぶ山道開発や、新たにさそわれたカラフト新漁場開発など行いえなかった。出稼五年目の文久二年(一八六二)、勝右衛門が直接経営した引場はトウベツブトの二統のみで、その水揚は五二四束(約一七五石)にすぎない。最も意をそそいだ浜中の引場さえ箱館の人秋田屋喜左衛門に貸し、この年の漁が終わると勝右衛門ら大津浜グループは、イシカリにおける漁業の権利をすべて(三浦)源治らにゆだね、実質的な経営から手を引き、網持出稼人の座を降りたのである。五年間の決算が「大金の損分に相成候に付、主君(水戸藩主のこと)えも申訳無之」(市史二九三頁)というのは偽りではなかっただろう。
以上、イシカリ改革期の漁業の推移について概要を紹介したが、その後の漁業の変遷に関する章は置かないので、次に近世終末期のイシカリ漁業を、改革期とのかかわりでのみ簡単にふれておきたい。