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玉虫左太夫の建言

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 安政四年(一八五七)閏五月二十四日に、箱館奉行堀利熙が廻浦によりイシカリ入りをした。利熙の一行の動向は、随行した仙台藩玉虫左太夫(諠茂)の日記『入北記』につぶさに記してある。奉行廻浦は各場所の状況の視察、監査などに目的があった。その中でもイシカリ場所は、イシカリ改革が政治日程にのぼっており、阿部屋のアイヌへの「撫育」に関し厳重な処置が断行された。
 玉虫左太夫及び島団右衛門(義勇)は、二十六日に松浦武四郎の案内で細工小屋、雇小屋を見学した。そして、サッポロ小使モニヲマ、上川惣乙名クウチンコレなどより種々話を聞き、あまりにもアイヌ支配人などの横暴のもとにあることを知り、左太夫は義憤にかられ利熙に実状を伝える一書を提出する。左太夫はさらに、「土人ノ困難中土ノ乞食ニ劣リ、第一飲食衣服ハ勿論ノ事、其外毎日支配人ノ取扱ヒ禽獣ヲ使フ如ク万苦身ニ負ヒ……」と述べ、食料・衣服に欠乏し、支配人が「禽獣」のように使役している様も指摘している。左太夫を案内した武四郎は、すでに場所請負制下のアイヌの窮状に関し知悉(ちしつ)しており、武四郎の意見も左太夫の一書提出のおおきな要因になったとみられる。
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写真-1 玉虫左太夫 万延元年に遣米使節団として渡米し、撮影したもの
(宮城県多賀城市 玉虫家蔵)

 左太夫の一書が効を奏し、堀利熙も「至極燐愍ノ情」を示す。そしてイシカリをたつ前日の六月一日に、重要な申渡しがおこなわれた。この日は、まず農業奨励のために十三カ場所の乙名アイヌに鍬が供与されている。この問題は後述するとして、申渡しは場所詰役人及び請負人・支配人に対し、賄賂(わいろ)の厳禁とともに、「土人共撫育方不行届趣品々相聞、如何之事ニ候」と問題を指摘し、「以後急度(きっと)相心得一同厚く扶助致し、別テ老人病人幷極貧窮ニテ漁事働も出来兼て致(ママ)し者ハ、別テ心得遣ス様致セ」と、撫育・扶助をおこなうよう指示している(石狩土人申渡)。この申渡しは、各場所の役人・請負人などへ出されたもので、イシカリ場所に限定されたものではない。日付もただ「巳(安政四)五月」となっている。しかし、イシカリ場所にて申渡しが出されたとみてまちがいはない。賄賂についてもイシカリ場所がもっとも横行しており、そのために調役水野一郎右衛門が、在住に降格されるほどであった。撫育に関しての「不行届」も、玉虫左太夫が「此場処支配人、土人ノ取扱ヒ以テノ外、不宜場所第一ト云フベシ」と嘆息しているように、イシカリ場所は不充分なところであった。それゆえ、申渡しは各場所あてになっているものの、直接的にはイシカリ場所の状況をきびしく指弾したものといえる。