以上のように、上・下サッポロ、ハッサム、ナイホ、シノロのコタンをみてくると、いずれも衰退あるいは廃墟と化していた。実際に居住しているアイヌも、まことに寥々たるものであった。これにはたとえば享和元年、二年(一八〇一、二)ころ、サッポロ川(豊平川)の流路が変わり、それまでフシコサッポロ川に注ぎこんでいたものが、ツイシカリに流れるようになり、鮭の遡上が減少し、漁場が衰退したことが原因ともなっていただろう。また、史上に名高い文化十四年(一八一七)から翌文政元年にかけて、疱瘡が大流行し多数のアイヌが死亡したことも原因といえる。さらにこのころより阿部屋がイシカリ十三場所を一括して請負うことになり、アイヌの使役や強制移住がはなはだしく、アイヌの社会基盤や家族生活がこわされ、経済的・生活的に疲弊していったことなどが、コタンの衰退の原因となったと考えられる。
コタンの衰退には、強制移住があったことを先に指摘したが、安政三年の人別帳には、他場所に編入された次の札幌市域のコタン出身者がみられる。元サッポロの出身者には、イカシトシ(トクヒラ小使)、ニツル(上ツイシカリ)、イタクリキン・チウエンレシユ(上カバタ)、ヌンへ(シママップ)、シイアンケ・ウソンレタレ(不明)、ハッサムの出身者はトツカマ(トクヒラ)、シノロの出身者はセクンラマ(上ユウバリ)、以上の九名が確認できる。
また人別帳には、同じく他場所に編入されてはいるが、家の所在地につきサッポロとするのは、サンキツ(トクヒラ)、イバンケ(上ツイシカリ小使、元サッポロ)、ハッサムとするのはシツタクウエン(トクヒラ)、ウワンテ(下ツイシカリ)、以上の四名がいた。
このような移動・移住がみられるのは、人別帳の恣意的な編成、使役にともなう強制移住が主要な原因であった。また、もともとアイヌの居住形態が、生産活動により流動性をもっていた一面もあるだろうが、多くは先の原因によるとみられる。
支配人や番人の責苦に耐えられず、モニヲマなどは他所への出奔を思いたったこともあったが、実際にそのような例も多かったとみられる。しかし、たとえ出奔しても各場所の支配人同志が連絡をとりつれ戻されたであろうが、出奔するしか責苦より逃れることができない状況に、多くのアイヌが立たされていたのであった。