是迠詰合之者上下一同、衣食等ニ不苦様取計可申候条各得其意安心可致、其上人材ニ随ひ夫々任用可有之、今日ニ至リ候テハ皇家之御民たるハ勿論ニ候間、裁判所附属之心得を以尽力可致候事
(御用控 大友文書)
これをもって大友の立場もまた御手作場も、当面は継続することになったわけであるが、同年七月十二日に大友は改めて箱館裁判所付属に任命され、御手作場の経営に従事した。なお慶応四年(明治元年)六月より明治二年三月までの文書には、「大友織之助」と記名されているが、おそらくこれは幕臣より朝臣に代わる際、一時「亀太郎」を「織之助」と改称したものではないかと推測される。その後元年十月より翌二年五月に至る間、松前・蝦夷地は榎本武揚の率いる旧幕府軍によって占拠されたが、二年五月十八日に降伏し、再び箱館府(前年箱館裁判所を改称)が管するところとなった。
この間大友は御手作場に新規農夫として、嘉助(家族三人、越後国蒲原郡枚村出身)、与兵衛(家族二人、庄内田沢村出身)、佐吉(家族三人、八戸井保内村出身)、平吉(家族三人、津軽出身)の、計四戸、一一人(男六人、女五人)を、明治二年正月より三月の間に引き入れている。
さらに大友の『履歴書』(大友文書ならびに大友亀太郎文書補遺)によると、この六月二十九日に御用召しがあって箱館に出張、七月四日箱館府において、会津降伏人二万人の移住計画の衝に当たっていた堀真五郎よりその開墾の諮問を受け、翌七月五日直ちに兵部省(軍務官か)出張所石狩国開墾掛(月給一〇円)に任命されている。これをもって大友はイシカリ御手作場の取扱いから離れることになったのである。この七月八日には開拓使の設置をみている。そして帰着後の八月にナエボの開墾に着手し、また十月四日には兵部省の命により石狩国トウベツ山の開墾場予定地の調査に赴き、同月八日石狩に帰着してトウベツ開墾場の地勢を報告するとともに、十月十二日サッポロ村のイシカリ御手作場ならびにナエボ一円を開拓使に引き渡すに至った。
その後大友は直ちにトウベツにおける兵部省石狩国開墾場の造成に、金一万七〇〇〇両余の資金をもって従事するが(米金諸品受取方元牒 大友文書)、それも間もなく中止のやむなきに立ち至り、明治三年四月二十二日には兵部省石狩役所の開拓使への引き渡しのため、大友はトウベツ開墾場等の書類ならびに残金を兵部大録桜井安宅らに引き継いだ。これより先に石狩において、札幌本府建設に奔走していた開拓判官島義勇に大友は招かれ、開拓事業推進のため開拓使への就任を懇請されたが、今その職兵部省にあるをもって辞したという。そして兵部省から離れた翌日の四月二十三日、一旦開拓使掌に任命されたが即日辞して就任せず、以後六月に至る間兵部省事業の残務整理のため外務省出張所当分手伝を勤めて、六月十六日石狩を離れた。妻の実家のある有川村に滞在後、八月二十五日に一三年間におよぶ蝦夷島での厳しい職務と生活に終止符をうって函館より離道したのである。
その後は、若森県(現在の茨城県の一部)、島根県、山梨県の官吏を歴任し、明治七年(一八七四)帰郷して副戸長、戸長に就任、明治十四年(一八八一)には神奈川県会議員となって四期を務め、明治三十年(一八九七)十二月十四日死去した。享年六十四歳、墓は小田原市西大友盛泰寺にある。