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本府計画

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 本府の建設計画は、「石狩大府指図」と「石狩国本府指図」から類推しなければならない。

この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、
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写真-4 石狩大府指図(北大図)
 
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写真-5 石狩国本府指図(北大図)

 「石狩大府指図」から考察すると、本府を中心に役宅と道路を配置し、北に開墾村(札幌村)・篠路村を、南には役宅そして大町を配置している。南西には後の北海道神宮にあたるお宮や琴似村発寒村が配置され、南東には豊平川東側に豊平村を配置している。この大府図は、全体として石狩大府が大きく描かれすぎていたり、札幌川(豊平川)が南北に描かれていて、本来西方面にあたるお宮、琴似・発寒村や銭函が南西に描かれているなど、方向や大きさに問題がある。だが、全体としての位置関係が、当時としてはかなり正確に描かれていることから見て、この大府図は、島判官一行が銭函へ来て以降に、実地の調査に基づいて描かれた可能性がある。だが実際に建設を始めた時の規模より大きく描かれているが、そのことから島判官らがそのような大規模な構想を持っていなかったとはいえない。
 「本府指図」では、一間幅の堀で囲まれた方三〇〇間の本府が北部に描かれている。その北側には、幅三間の土塁、更にその外側に幅一間の堀を設けている。本府の南に長官邸・判官邸から使掌の長屋などの役宅官舎を配置し、更に農政市政刑部の役所や武家などの休憩所、諸物産や米の蔵が配置される。その南に幅四二間の道路を設置し、その中に幅三間の土塁を二本互い違いに配置し、官地への直線的侵入を防いでいる。この大通の南に本町と記された町地が配置される。これは「大府図」の大町である。豊平川沿いには町屋など諸屋敷が配置されている。また本府から役宅地域を南北に貫く道路は、幅一二間、町地を区画する道路も幅一二間である。
 このような広大な計画を持った本府建設の計画は、島判官を中心とする、石狩へ赴任してきた役人たちによっての構想であろうと推測はしてみたが、明治二年七月頃の構想の可能性も否定できない。