その情勢の転換に対応し、函館では西村権監事、広川大主典、八木下大主典が「札幌開府に付当使一般会計の目途」を作成し、十一月十一日に提出した(府県史料 国公文)。開拓使はそれを検討し、各項目の費用を多少増減させたり、但書をつけ加えるなどして十二月七日に太政官へ提出した。太政官はそれを大蔵省にまわして検討させた。多数の付箋と「尚取調べ差出し有之度」という指令が付されて戻されるのが、四年三月十五日である(正院往復 道文三三〇)。
「札幌開府に付当使一般会計の目途」のなかにある「札幌開府入費米金積」から、札幌での本府建設計画を類推することができる(市史 第七巻八〇頁)。なお『市史』第七巻に掲載した史料には、判官邸建築費の前に「一、金 壱万両 長官公邸取建入費一式」が書き落とされている(本庁往復 道文一九〇三)。
建設予定の施設は、札幌神社、本府、長官邸、判官邸、判任官役邸、農家三七五戸、東京府貫属一二〇軒分の家作、米蔵三カ所、新道新川開削で、外の出費は官禄と臨時費分である。札幌神社は現在の北海道神宮で、その神体は島判官が東京から運んできたものである。この時点では三年五月に仮宮を建てている。本府とは後の開拓使本庁舎である。判官邸は判官の役宅で、三年中には建設場所の整地などが済み材木類も用意されていた。しかし九月にその建築は中止されていた。判任官役邸は大主典以下の役宅である。これはすでに三年中に大主典邸、少主典邸、使掌長屋などが数棟建てられていたものに追加するものである。農家は七月の布達で五〇〇軒を移すことになっていたが、その後の計画変更でそのうち一部を幌泉などへ移すことにし、残りの農家分である。東京府貫属は三年中に計画されたが、東京府との条件があわなかったのか、後に立ち消えになるものである。米蔵は篠路、石狩、小樽に建設をしようとしたもので前年の物資不足の教訓から整備しようとしたものである。新道は銭函道の整備が中心であろう。新川は当時工事が進行していた銭函への運河と考えられる。
ところがこの計画に対し大蔵省では多数の付箋を付してきている。例をあげると以下のようである。
札幌神社建立入費の三〇〇〇両五〇石について、「何之神社御建立相成哉、幾社御建立相成哉、壱社ニ候ハヽ、莫大過当之御入費ニ可有之、併如何様之御見込ニ候哉」と付箋がついている。島判官赴任の際に持参した神鏡の安置所であることが知られていない。そして経費がかかりすぎるという問題である。長官以下の役邸の経費についても、概ね経費がかかり過ぎると指摘されている。
おそらく大蔵省では、すでに札幌での経営が西村によって実行に移されていることを知ったのであろう。四年二月に急遽開拓使に対して、詳しい説明のできる人物を大蔵省へ出頭させるように申し入れている。この時点で大蔵省と直接交渉ができるところにいるのは東京詰の役員である。ところが開拓使側で詳細な回答をなし得る者はいないし、薄井監事は横浜出張中であった(開拓使公文録 道文五七〇八)。その後この間合せにたいしてどのような処置がとられたのか不明である。しかし付箋をみると計画の詳細を知らないままの状態であるから、東京の役員では役にたたなかったといえる。だが開拓使側は、すでに札幌での経営を着々と進めていた。