明治二年七月八日に開拓使は設置されたが、当初その使庁は民部省の中に置かれた。民部省は地方行政を管掌する主要行政機関であり、当時大名小路にあった旧幕府の閣老役邸で元老中稲葉美濃守屋敷を庁舎としていた(広沢真臣日記)。同年八月に開拓使庁は民部省内から太政官内に移転した。このことはあるいは、北地問題で政府部内は紛糾しており、常時開拓・民部・大蔵・外務・兵部等の各省使間の協議を必要としていたことに起因するものであろうか。そして三年閏十月九日に至り、その太政官内の開拓使庁を廃して開拓使東京出張所とし、東京小網町稲荷堀の北海道産物会所に移転したのである。
ところで開拓使は、本来「諸地ノ開拓ヲ総判スル事ヲ掌ル」機関として、太政官のいわば外局として設置されたことはすでに述べた(前章一節)。設置に当たっては「開拓」の管轄対象地域として「諸地」を想定していたといえようが、現実に行政機関としての機能を行使し始めると、その対象は蝦夷地あるいは北海道・樺太に限定されていた。一時樺太開拓使が新たに設置されていた時期には、本来の開拓使は北海道開拓使とさえ呼称されてもいた。したがって開拓使は、必然的に旧箱館裁判所また箱館府の系譜を引いて、職掌には明記されていない、北海道・樺太の地方行政庁としての性格も付加されたといえよう。かといって一般の地方行政庁である府・(藩)・県とは明らかにその機構や機能、また長官の地位・権限等も異なり、国家的事業としての「開拓」にかかわって、府県には見られない多くの特権が付与されていた。