開拓使は北海道・樺太の全域を総轄するものであったが、当初その全域を直接管轄したわけではなかった。二年八月十七日政府は水戸藩知事の徳川昭武に天塩国四郡・北見国一郡の管轄を許したのを始めとして、以降順次出願あるいは命令により、ほぼ郡を単位として藩や士族等にその地域の管轄をなさしめた。このいわゆる分領支配体制を採用した理由は、一つに国家財政の窮乏であり、また一つに北地問題の緊急性によるものであった。『明治天皇紀』(第二)には「蓋し朝議北海道の開拓を急務と為し、全国の力を挙げて之れに当らしめんとせるなり」と記している。結局二年八月より四年八月までの分領支配体制の時期に、管轄期間の長短、管轄地域の広狭はあるが、開拓使を除き、一省(兵部省)・一府(東京都)・二四藩・二華族・八士族・二寺院の計三八管轄者によって、全道八六郡のうち七〇郡の分領支配がなされた。しかしそれらによる開拓の成果は、その意図に反して全般的にほとんど見るべきものはなかった。
ここで開拓使の直接管轄地をみると、支配者未定地域や支配返還地域は、自動的に北海道を総轄する開拓使の管轄地となるので厳密にはいえないが、分領支配期間を通じて終始開拓使の管轄とされていた地域は、石狩国の札幌・厚田・上川の三郡、後志国の忍路・余市・古平・美国・積丹・古宇・岩内・寿都の八郡、渡島国の上磯・茅部・亀田の三郡、それに日高国の三石・幌泉の二郡、以上一六郡の地域であった。
その後、三年二月十三日に樺太開拓使の設置をみて以来管轄を離れていた樺太が、四年八月八日の樺太開拓使の廃止によって再び開拓使に移管された。そして同月二十日に分領支配を廃止し、北海道を開拓使の一円支配に帰せしめた。ただ渡島国の爾志・檜山・津軽・福島の館県管轄地(旧松前藩領)の四郡は、弘前県、ついで青森県の管轄地に編入されたが、これらも五年九月二十日に開拓使に移管されるに至った。また八年五月七日、日露間で樺太・千島交換条約が調印されたことに基づき、ロシア領となった樺太は同年九月十九日受渡しを完了、日本領となった千島全島は十月二十日に開拓使管轄となった。