開拓使が札幌を建設しはじめた当時は、町という体制は全くなかった。当時すでに村となっていた発寒、琴似、篠路、札幌には本州の諸村と同様に村役人が置かれていた。それらは琴似村以外は開拓使時代の史料にも散見できる。現在までのところ町役人の任命で最も古く確認できるのは、札幌市中には明治五年二月町代であった清水三次郎が病気による辞職願を出したときの願書に、三年十月以降町代を仰せ付かっていたと記述しているものである。その後四年三月の『辛未歳市中人別申出綴』(道文三一二)など市民からの書類の奥書に、町代清水三次郎と町代見習高橋亀次郎の名が記されている。高橋は四月二十九日に町代を申し付けられている。この町代見習は初心者としての見習ではなく、副町代という意味である。その後前記の人別申出綴や『市中諸願綴込』(北大図)にある書類の奥書から判断すると、以下のように町役人が任命されていく。四年十月町代見習に大友甚作、十一月市中小走(町会所小走)に深道繁次郎、十一月高橋免職、大友に町代任命、町代見習に寺沢次郎兵衛任命、五年一月休暇をとって函館へ行った寺沢が帰らないので解任し、小野新太郎と島倉仁之助を町代見習任命、三月清水三次郎、病気により依願免職(願は二月)、四月町代小野新太郎・高瀬和三郎、中年寄高橋亀次郎・島倉仁之助の記載。
以上のように、おそらく本府建設が進み人口が増加するにしたがって、町役人の役職・人数も増加していったものと思われる。この当時町役人たちが執務を行うところを町会所とよんだ。
この間これらの町役人らとの開拓使側の窓口は、開墾掛である。この開墾掛は、当掛の公務日記である『細大日記(誌)』(市史 第七巻)でみると、移住民の移住地や家作などの世話を担当している。また、町役人から出された願書や届を処理し、場合によっては会計掛や営繕掛などと商議したり、(大)判官や幹(監)事などへ上申や伺を行っていた(市史 第六巻)。この時期の札幌市中の町行政的なものは、この開墾掛と町役人等が行っていたのであろう。