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取締を巡る紛糾

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 白石手稲村の取締などの変遷は表3の通りである。取締助は白石村では五年二月から三人となり、手稲村は二人である。取締は両村とも一人で、白石村は佐藤孝郷がつとめあげるが、手稲村の方は交代が頻繁である。それだけ貫属の統率が難しく、辞職が相次いだためであろう。家臣団の主人を失ってもかつての身分秩序の気風が残っていただけに、取締の役割は困難を極めたといえる。

表-3 貫属取締の変遷

 取締などに任ぜられたのは、佐藤孝郷(明治四年数えで二二歳)、三木勉(三四歳)など若く、また必ずしも片倉家時代の家柄の序列に従っておらず、しかも選挙によったものではなく開拓使による一方的な人選のため、「惣轄」に困難を極めたのであろう。このゆえに、白石村からは取締一人、助役三人のみでは取締が不行届で、「御法令及御趣意柄貫徹不仕」故に、「衆望材力両全之者一人御任選被成下、貫属百家之惣轄ニ被仰付被下置」と、惣轄者の人選を求めている(白石村移住以来保存ノ書類 道開)。この願書は四月に出願され、差戻しに会い、もう一度再願をしている。取締、取締助、惣代の連名になっているが、内容は取締である佐藤孝郷の不信任であり排斥とみてよい。

写真-4 白石村貫属取締となった佐藤孝郷(『白石村誌』より)

 白石村で惣轄者と期待され輿望(よぼう)を担った人物は、おそらくかつての旧主の子息で幌別郡に移住していた片倉景範のはずである。白石村では六年六月から八月にかけ、佐藤孝郷が中心となった上白石への移転派とそれに反対する非移転派との間で、村内が二分される対立があった。また片倉景範が十一年十一月十七日に、上白石白石上手稲村三力村戸長となったが、これらの背景には「惣轄者」を巡る政争があったのである。
 先の願書と同じ頃、白石手稲村の取締、取締助から別な出願も行われていた。それは、取締を士族へ、取締助及び貫属を卒族に編入を求めていた。それと同時に取締などに、「等級無之候テハ何ヲ以貫属ヲ維持シ、何以職分ヲ尽シ可申哉」と、「等級」を求めていた。これは取締などの地位強化と威権を「等級」に求めたのに他ならない。それだけ両村内には、取締などに対する反感が醸成されていたものだろう。
 これらの動きに対し開拓使では、白石村の佐藤孝郷については一貫して擁護する姿勢をみせた。まず四月十二日に、「先般角田県において申付候貫属取締差免、更ニ白石村貫属取締申付候事」と改めて孝郷を貫属取締に再任した(細大日記)。この頃孝郷は一五等出仕とされ「等級」を得た。これは取締に付随するもので、取締を正式に開拓使の官職に繰り入れたのであろう。同時に副戸長制の実施にともない彼を白石村副戸長の兼務とし、立場の強化につとめている。副戸長は間もなく六月には、千葉元亨(庄平)、榊原次郎七(八月頃に管野嘉敏と交代)にかわるが、孝郷は取締の地位を貫属廃止まで保った。
 手稲村では引地広安が新しく貫属取締となったらしいが、任命史料は残っていない。取締助は六月に白石村で、安斎篤敬(謹吾)を伍長に(白石手稲取扱書留 道文四五二)、榊原次郎七を副戸長に任命(奥羽盛衰見聞誌)した史料を境に姿を消す。この時点で廃止されたものだろう。
 貫属取締は五年十一月に貫属が民籍に編入されたことにより、六年一月十三日に廃止となった。