写真-11『勧農協会報告』第一号表紙
三県一局時代に入ってからこれまで開拓使に属していた札幌育種場(札幌官園)をはじめとする官営農業諸施設は、農商務省北海道事業管理局の札幌農業事務所の管轄となり、名称変更、統合等も行われた。また三県勧農業務との不一致もあって若干の混乱も生じたが、施設の事業そのものは開拓使時代を踏襲して行われた。しかし県下各地の農業生産の拡大にともなう農産物の販路・流通拡大の方法は、当時の全体的な不況傾向とも重なってきわめて不十分な状態であったらしく、当時の県政資料においてしばしば指摘されているところであるし、ひいては新たに増加傾向の見える府県からの移民の生活にも悪影響を及ぼすこととなったのである(札幌県 拓殖、地方巡察使復命書)。
札幌県はひき続き種々の勧農施策を実行したが、その一つは全国の流行と軌を一にするものであるが、在村の篤農家を一堂に会して彼等の経験を農業施策の中に生かそうという試みであり、農話会あるいは農談会などといわれた。十五年と十七年、県は勧農協会に委託して農業仮博覧会及び北海道物産共進会に出席した篤農家を集めて農話会を開いた。また十六年七月には老農船津伝次平を招き札幌で農談会が開かれたが、近村の篤農家ら一五〇人が集まり農事が議論されている。
そのほか、耕種奨励の対象を稲・藍・麻・果樹などにしぼって農民に奨励したこと、とりわけ稲の奨励を第一にあげその将来性を保証した点は注目に値いする。十六年札幌育種場は同場の水田を八一〇〇坪拡張し、前年の二倍約一万六〇〇〇坪とした。このほか西洋農具の払下や養蚕の奨励等も重点施策として続けられた。
開拓使時代と十九年以降のいわゆる道庁時代にはさまれた三県時代は、総体としての停滞時代と評価されることがある。ただ開墾・営農といった経済活動にはまたそれ自体の論理によって前後が継続される。以下、若干の分析資料によって札幌郡の農業状況についてふれてみる(札幌周辺の移住および開拓地域の変遷 新しい道史二〇号)。
札幌郡の本籍人口、寄留人口が共に著増している点が一つの特徴である。十五~十八年の四年間、本籍人口は平均して一〇パーセント以上増加し、寄留人口は十二年から十七年までにほぼ二倍に達している。人口数の面からいえば少しも停滞はしていない。しかしその内容は統計資料の不備もあって不明な点が多い。とくにめだつのは兼業率の高さと兼業人数の増加、及び小作地面積の増大傾向である。札幌県全体の数字では逆に、専業戸口の増大、兼業戸口の減少が一貫してみられ、札幌周辺との違いを示していた。
次に主要農産物の価額の変遷について、道庁時代の初期も含めて表12で見てみたい。
表-12 穀菽類(大麦・小麦・大豆・小豆)生産価額増加率及び増加指数(屯田兵関係を含む) |
価額 | 札幌郡・区 | 札幌県(15~18年) 石狩国(19~21年) | |
明治 15 年 | 実数 | 32821円000 | 106869円765 |
16 | 実数 | 25726円632 | 71622円420 |
17 | 実数 | 41702円258 | 96625円907 |
18 | 実数 | 43754円110 | 143364円956 |
19 | 実数 | 43019円915 | 54935円198 |
20 | 実数 | 46815円277 | 59674円537 |
21 | 実数 | 64801円398 | 82292円082 |
『札幌県統計概表』(明治15年),『札幌県勧業課年報』第2~4回(明治16~18年),『北海道庁勧業年報』第1~3回(明治19~21年)より作成。 |
札幌郡・区、札幌県ともにその生産価額はやや不安定ながら著増していた。また一戸当たり生産価額においても両者共に増加していた。ただし本表は屯田兵関係を含んだ数字であり、それを除いた場合の正確な評価は困難である。これ以前の八年~十四年の統計によれば、一年おきに価額の増減を繰り返していたのである。いずれにしても急速な人口増加と不安定ながらも生産価額の増大傾向は指摘できる。しかも移民及び農地開拓の方向は札幌県内に急速に広がりつつあり、一方で札幌周辺の市街地化も進んでいたので、札幌周辺諸村の農業をとりまく情勢はかなり流動的なものであったことが推察される。もちろん周辺農村移住者にとって、市場及び兼業機会を提供する札幌市街との強い結び付きを抜きにしては、その存在は難しいものであったと思われる。