十五年三月、函館・札幌・
根室県令連名で「公立学校へ地所下付ノ義ニ付」内務省あて伺い、許可を得たので、
札幌県は同年九月から払下げを行った(
札幌県公文録 道文一〇一七九)。学校維持のための財源確保を目的とするもので、
白石村を例にとれば、野津幌山の官林五〇万坪の払下げをうけ、椴その他の木材を伐採して売払い、うち三八万坪を
学田として墾成し、残りは学林とするものであった。しかし全体としてみれば、当初は伐木のみに止まり、
学田開墾にまで至らないものも少なくなかったといわれる。また円山学校は
上手稲村西野に払下げをうけ、小作人を入れて開墾させたが、小作料収入が教育施設の充実、村民の負担軽減に大きく寄与したのは三十年頃からといわれる(円山百年史)。十八年における
学田願の状況は表4のとおりである。
1.明治17年中島遊園地指定前、山鼻学田に出願されたが実現せず。月寒学田はのちに厚別に設置された。豊平学田は明治23年5月許可。 2.藻岩学校は中島を学田にする計画があった。円山学校は山口村にも学田にする計画があった(「札幌県学務課視察報告書」による)。 3.山崎長吉『札幌教育史』上巻による。主要史料は『札幌県治類典』(道文9609)。 |