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米の確保

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 草創期札幌の人びとは、近世末に石狩や札幌付近に住んでいた農漁民の人びとがそうであったように、まず本州からの米の移入に頼らなければならなかった。明治初年の札幌においては、本府建設のために現地入りした官員をはじめ大工・諸職人、あるいは本府下で商業活動をするために集められた商人、あるいは本府をとりまくように作られた村に入植した農民たちにいたるまで、官からの米の給与・払下を受けていた。それゆえに開拓使による米の確保如何が、本府建設を左右する鍵になったのではなかろうか。
 なかでも官員はじめ本府建設に携わった人夫・諸職人は、官禄・給料として米が支給された。明治初年、開拓大主典を務めた十文字龍助が残した廻米関係の請払簿によれば、二年十月から三年五月までの間、銭函方で扱った蔵米の請払高は、表4のごとく合計二六八石五斗六升八合余となっている(明治二、三年開拓使銭函方御蔵米御用金請払 北大図)。このうち官員以外の請払先は、本府建設のための新道建設の人夫や家屋建築の大工や諸職人などで、一日一人七合五勺ずつの米とそれに味噌とが賃銭の代わりに支給された。この場合、米・味噌ともに石狩から運ばれた。当時の札幌の人口は、三年二月調査では人夫・諸職人が「山子百九拾弐人搗掛百拾(ママ)人杣十弐人人足土人共ニ百五拾七人諸職人鍛冶共ニ百八拾三人都合五百五拾四人也」(十文字龍助関係文書 市史 第六巻)とみられることから、官員と幕末以来居住のアイヌや農民とそれまでの移民を合わせても七〇〇人足らずだったろうか。ところが本府建設が本格的段階に達した三年末から四年にいたっては、大量の農民や人夫・諸職人受入れに対し、米の確保が重要な課題となってきたことはまちがいない。
表-4 銭函方扱蔵米請払高(明治2年10月~3年5月)
玄米
官員願受4石6斗1升9合8勺8才
札幌送り218石8斗5升8合5勺  
発寒送り12石3斗9升2合    
アイヌ1石7斗  2合    
小 計237石7斗9升7合3勺8才
白米
官員願受4石7斗        
職人人足渡25石8斗8升1合    
小遣小者願受2升 (糯白米)
札幌送り8斗        
小 計30石7斗7升1合    
合 計268石5斗6升8合3勺8才
『明治二、三年開拓使銭函方御蔵米御用金請払』(北大図)より作成。

 本府をとりまくように作られた村に移住した農民たちには、二年十一月の「移民扶助規則」に基づいて、募移民に対して厚い保護が加えられた。規則によれば、一五歳以上玄米五合、七歳以上同四合、六歳以下三合の扶助米が三年間支給された。しかし、この規則は一時的であったようで、翌三年十二月「移民規則」を定めて四年より向こう三カ年間一日一人玄米七合五勺に改めている(開拓使事業報告)。これに該当した移民に四年白石村上手稲村に入植した旧仙台藩士片倉家従者ら百数十戸、それに同年平岸村に入植した六十数戸等がある。
 平岸村に入植した金山富蔵の妻セイの入植当時の懐古談によれば、扶助米は三年間男は玄米一日七合、女は同五合、子供は同四合の割合で支給されたという。しかし、扶助米を支給されている三年間は何とか楽に暮らせたが、それが過ぎると開いた土地も借金の代わりに取られて他へ移る者も出る始末で、米以外に麦や雑穀が主食となっていたという(平岸村開拓史)。
 米は、このように本府建設になくてはならない食料であった。ところが、流通機構がまだ未発達な上に貨物の運搬手段が乏しい時期であったため、絶対量が不足したのみならず、米価が一年を通じて均一でないことは、市民生活にとって非常に困難をきたした。ことに冬期間、雪害により米が札幌に入荷しないため米価は毎年のように高騰した。このため札幌市中や村の住民たちは、官米の払下げを要求し、しばしば蔵米を払下げてもらった(市史 第七巻)。
 このような状態は、手宮・札幌間に汽車が開通した後も解消されなかったようで、特に札幌の農家では主食に米・麦以外の雑穀を用いるのが一般的であった。たとえば十五年の札幌郡の農家では、主食のうち米が七に対し、米・麦以外の雑穀が三という割合であった(札幌県勧業課第一年報)。雑穀への依存はこの後も長く続けられた。