やがて同年九月段階に至り、熊谷(のちの群馬)県勢多郡水沼村星野長太郎の経営する製糸所に工女二五人の派遣計画が決定し、その人選に入った。その条件とは、「屯田兵家属ノ内ヨリ工女徴募致度候得共間ニ合兼候ハヽ其地近傍有珠余市移住民ノ内ヨリ伊達片倉元家来ノ内ヲ重ニ撰年齢十五歳ヨリニ十歳位迄ノ女生徒」を選んで派遣するというもので、期間も「来年の養蚕ノ頃迄ニハ卒業可相成見込」ということで、性急な人選となった。同年十月、応募者二八人のうち既婚者五人を入れかえて二五人の人選が終わった。この二五人とは、札幌郡白石村の武田津(つ)や(一六歳一一カ月)、同達崎満寿(ます)(一五歳)、上手稲村の佐藤理保(りほ)(一七歳四カ月)の三人を含んだ表12のとおりであった。表でわかるとおり、元仙台藩士伊達邦成・同伊達邦直・同片倉小十郎の従者の家族、それに元会津藩士の家族、元徳島藩士従者の家族たちである。
表-12 水沼製糸所行き製糸伝習工女名簿 |
N0. | 氏 名 | 年齢 | 出身地 | 父兄名 | 続柄 | 備 考 |
1 | 田村緑 | 18歳5月 | 胆振国有珠郡紋鼈村 農 | 田村顯允 | 二女 | 元仙台藩士 伊達邦成 従者 |
2 | 小貫伊久 | 16歳7月 | 同 農 | 小貫只之丞 | 長女 | |
3 | 黒川千代 | 16歳6月 | 同 農 | 黒川敬蔵 | 長女 | |
4 | 馬場重 | 21歳6月 | 同 農 | 兵頭謙蔵 | 附籍 | |
5 | 山木喜和 | 16歳9月 | 同 農 | 山木平三郎 | 妹 | |
6 | 千葉徳 | 17歳5月 | 同 農 | 千葉武内 | 二女 | |
7 | 木村昌 | 14歳8月 | 同 農 | 木村鉄三郎 | 三女 | |
8 | 北順 | 19歳3月 | 同 農 | 北清之進 | 妹 | |
9 | 伊藤峯路 | 19歳9月 | 同 農 | 伊藤善助 | 長女 | |
10 | 三戸部藤枝 | 17歳3月 | 同 農 | 三戸部要七 | 妹 | |
11 | 佐藤菊野 | 16歳1月 | 同 農 | 佐藤源四郎 | 長女 | |
12 | 伊藤志計 | 16歳1月 | 同 農 | 伊藤小三郎 | 女 | |
13 | 武田津や | 16歳11月 | 石狩国札幌郡白石村 農 | 武田義勝 | 長女 | 元仙台藩士 片倉小十郎 従者 |
14 | 達崎満須 | 15歳 | 同 農 | 達崎吉左衛門 | 長女 | |
15 | 佐藤理保 | 17歳4月 | 同 上手稲村 農 | 佐藤伊格 | 長女 | |
16 | 小野由宇 | 15歳 | 石狩郡当別村 農 | 小野実順 | 二女 | 元仙台藩士 伊達邦直 従者 |
17 | 管とめ | 15歳2月 | 同 農 | 管万 | 二女 | |
18 | 伊藤利 | 15歳11月 | 同 農 | 伊藤金作 | 二女 | |
19 | 吉村い津 | 18歳8月 | 後志国余市郡黒川村 農 | 吉村栄勝 | 妹 | 元会津藩士 |
20 | 小池満喜 | 16歳9月 | 同 農 | 小池孫之進 | 妹 | 農 |
21 | 中田比伝 | 14歳4月 | 同 農 | 中田常太郎 | 妹 | 荒物渡世 |
22 | 大関津根 | 14歳9月 | 同 農 | 大関猛雄 | 姪 | 元会津藩士 |
23 | 加田里 | 17歳1月 | 日高国静内郡上下方村農 | 加田熊次郎 | 女 | 元徳島藩士 稲田邦植 主従 |
24 | 服部勇 | 16歳3月 | 同 農 | 服部久之助 | 妹 | |
25 | 友成久野 | 16歳1月 | 同 下下方村農 | 友成藤太 | 妹 |
*明治7年10月出発、10年12月帰国。『開拓使公文録』(道文5818)より作成。 |
札幌郡の三人をはじめ水沼製糸所行き生徒は、同年十一月二十八日、開拓権少主典栗原克忠引率のもと製糸所に入所した(開拓使公文録 道文五八〇〇、旧開拓使会計書類 道文六六〇〇)。
私立水沼製糸所は、七年二月水沼村の豪農星野長太郎(代々村役人)が、熊谷県から三〇〇〇円の貸下げをもとに開業した私立の製糸所であった。熊谷県の東北部を流れる渡瀬渓谷沿いの谷間の村は、村の九九パーセントが山林におおわれ、近世から農業の傍ら、養蚕や造材で暮らしを立ててきた。農業で村の貧困を救うことは困難と考えた星野は、近世以来の蚕糸業を改良することによって収入増をはかることを考え、五年から翌六年にかけて、前橋製糸所で器械製糸の方法を学んだ。しかし、水沼製糸所が水車動力の製糸器械三二台を備えたのは八年一月、製糸所の完全操業は同年秋のことであるから、開拓使の工女が入所した頃は、設備においても、また技術においてもまだ不完全な状況であったようである(日米生糸貿易史料第一巻)。
入所した二五人の工女は、入所当日開拓使と製糸所側とで取り交わされた「定約書」、「製糸所規則」や「工女寄宿所心得」によって最初の約束の一年ではなしに三年間の修行年限が定められていることをはじめて知った。そればかりでなく、給料は一等から一二等まで等級別格差がつけられ、月給四円五〇銭より三七銭五厘までに分けられていた。労働時間は、夜明け三〇分前に工場に入り、夜明けとともに仕事を開始した。製糸所の「壱周年就業時間表」によれば、もっとも繭の出回る五月末より七月上旬は朝四時四五分から夕方七時一五分までの実働一四時間におよび、反対に冬場の厳寒期は実働七時間三〇分と季節によって異なっていた。また、夜学校が設けられていて、読書、習字、算術、裁縫等の授業も受けられるようになっていた(同前及び旧開拓使会計書類 道文六六〇〇)。
しかし、製糸技術修得のため慣れない高度な技術を要求された上に、不規則な長時間労働を課せられた工女は、健康を害する者が続出し、修行中途にして帰郷する者一人、死者二人を出した。たまたま星野家文書(私立水沼製糸所や星野家一族に関する文書 群馬県杉崎家蔵)中の北海道関係史料のなかに、石狩郡当別村出身の小野由宇(ゆう)が、九年十月二十五日に結核のため病死した一件が残されている。死後、製糸所から開拓使へ報告された「製糸女生徒小野勇給料并諸費用調査綴」によれぱ、小野由宇が二年弱伝習のため働いた給料の合計が一四円六四銭八厘一毛に対し、支出にあたる諸費用は三二円一七銭二厘一毛という具合に(途中父実順看護出京のため七円余の借金を含む)、はるかに支出の方が上回っているのがわかる。諸費用の内訳は、衣類、小間物、郵便、書籍、荒物等で、一年間のつもりで支度もそこそこに入所した工女らが、伝習期間の長期化に備えたものとも考えられる。
水沼製糸所での伝習は、十年十月末まで行われた。その間最初の約束と異なる伝習期間の延長に対して、親元より帰国嘆願が何度となくくり返されたことはいうまでもない。また、病人続出の八年二月には、開拓使より開拓少主典足立民治が女生徒取締として製糸所に派遣された。実状を把握した足立は、富岡か前橋の製糸場への転場意見書を開拓使に提出している。それは、水沼製糸所が器械設備もいまだ完備せず、技術に熟練した者も少ないことから習熟もおぼつかず、開拓使の製糸着業に影響すると判断したからであった。しかし、熊谷県の説得にやむなく満期までとどまることになったのである(開拓使公文録 道文五八一四、五八一八)。
十年十一月上旬、満期を迎えた工女二二人は一旦上京、うち六人は勧農局新宿試験場でさらに撚糸修行にも従事した。工女らが東京より帰国の途についたのは十一月三十日であった(同前五六六四)。