当時の薄野「遊女屋」は一八軒もあったはずであるが、ここでさらに「西洋作之一大妓楼」を開拓使の予算のうち一万円をもって建設しようとする岩村判官の目論見はどういうところにあったのだろうか。札幌は、前年よりようやく市街作りが着手され、五年より開拓使本庁舎やその他の施設の建設も着手され、諸職人等三〇〇〇人余が集まることになっていた。徳川斉昭が天保十年(一八三九)、『北方未来考』のなかで、「不毛の地今より開くニハ第一人の住よく思ふ様ニするが先」と述べたが、その実践ともみてとれる。
岩村判官発案の妓楼建設計画は、五月にはさらに拍車がかかって「猶御詮議替相成妓楼取建繰替之廉弐万円」というように倍額に引き上げられている(開拓使公文録 道文五七二五)。
ところで一方、札幌での妓楼建設計画と同時期に開拓使東京出張所では、松本弥左衛門と城戸弥三郎の二人が札幌に「遊女屋」の出店を開業したいのでその支度金として六〇〇〇円の拝借を出願していた。しかも、妓楼建設の家作料は開拓使持でということであった。東京出張所では、二人の出願にきわめて異例と思われる早い対応でのぞみ、出願のあった五月中に六〇〇〇円貸与の許可を下している。実際に、開拓使からの拝借金は、六月と七月の両度に分けて貸し下げられた。松本・城戸は七月九日、家族や下男下女、それに遊女一八人、芸妓三人を含む総勢四二人で品川から横浜丸に乗船し小樽経由で札幌に向かった(旧開拓使会計書類 道文六八一七)。
写真-10 松本弥左衛門・城戸弥三郎による遊女屋開業のための拝借金嘆願書
(旧開拓使会計書類 道文6817)
一方、札幌での岩村判官発案の妓楼建設は、東京出張所での松本・城戸の出店計画が進行したためか、六月二十三日「次官公(黒田清隆―引用者注)より札幌へ被仰遣候儀も有之」、「妓楼取建ハ御差止候入用弐万円ハ貧院御取立入用ニ御振向之趣」(開拓使公文録 道文五七二五)と、急拠とりやめとなっている。
松本・城戸の一行は、横浜丸で七月十九日小樽に入港した(公務適用日誌 東京岩村家蔵)。まだ遊廓内の家作は完成しておらず、官員や外国人の宿所脇本陣(現南一条西三丁目)に宿泊することになった。一行が到着する直前には、松本・城戸等一行のために旅籠屋一棟を二三〇八円余をかけて新築する計画も提案されたが見送られた(開拓使公文録 道文五七二五)。ところで『開拓使事業報告』〈第二編建築〉に記載されている家屋表によれば、五年中に開拓使が手がけた家屋に「薄野仮旅店」(建坪一三九坪一六、経費金二二三九円七銭四厘)がある。七月着工、十月竣工となっているが、開拓使が遊廓地内に建設した「仮旅店」とは何を指すのであろうか。あるいは東京楼の可能性もあるが、建坪・経費からいっても疑問が残る。
松本・城戸の「遊女屋」すなわち東京楼は、当時の上磯通(現南六条通)と山越通(現西三丁目通)の交差する遊廓地の南東の角地に、間口二〇間奥行二三・五間の面積四七〇坪を拝借して建てられた。すなわち遊廓二軒分の土地に建坪一九三坪、営繕費にして三一九五円九〇銭九厘という、他の妓楼に抜きんでて大きい建物であった(旧開拓使会計書類 道文六八一七)。その落成は九月頃であったようで、『札幌昔話』には、開業当日遊女たちが宿所の脇本陣から上磯通の東京楼まで行列をなしたとのいい伝えが記されている。
東京楼は、前述したように開拓使より六〇〇〇円の拝借金を無利子で、六年十月より向こう七カ年賦で返済することになっていた。さらに妓楼営繕費として三一九五円九〇銭九厘を拝借したので、結果的には合計約一万円を拝借したことになる。東京楼を直接経営したのは、松本や城戸のような民間人であったが、資金面の動きからみれば実態は「官設」であり、五年四月時点の岩村開拓判官の妓楼建設の提案どおりになったといえよう。
ところで、東京楼開業にあたり松本・城戸が引き連れた遊女は一八人(名簿上では二一人のほか病人二人の計二三人となっている)、芸妓は三人であった。また遊女の年齢は、一五歳を最年少に二四歳までの平均年齢は一九歳であった。東京品川新宿で「遊女屋」を営んでいた城戸が召抱えていた遊女か、あるいは札幌に出店開業するにあたり東京で召抱えたものであろう(同前)。