十四年から十六年にかけて札幌地方を襲った蝗虫(トノサマバッタ)の被害は、甚だしいものがあった。これは、十三年十勝方面で発生し、次第に日高・勇払・虻田・石狩方面へと拡がった災害で、当時官民ともにその生態については知識がなかったので、まったく手の施しようがなかった。
十三年十一月札幌本庁では、「蝗虫駆除施工順序」を出して卵の孵化を防ぎ、またこれを焼殺すべしと令達した。十四年六月開拓使は、とりあえず五万円(五年間で約三〇万円)を駆除費にあて、飛蝗を獲殺し卵を採掘することとした。七月には、太政大臣三条実美も開拓使に蝗虫駆除に一層尽力するよう示達した。札幌では十四年六月五日に蝗虫が白石村や真駒内牧牛場で発見され、同月中に琴似、上手稲、下手稲で、また七月に入ってからは月寒、白石、円山、琴似各村でもっとも多くみられるようになった。駆除法として、村民の老若男女を問わず人力をもって手で捕獲するほかなく、一升金一五銭で買い上げる方法をとった。しかし、一日一人三合が限度であり、一人二〇~四〇銭で人夫を雇って捕獲することにした。捕獲方法として、木綿製の袋を用いたり、蝗虫のいる原野を焼き払ったり、穴を掘って埋め、高く土で覆うなどあらゆる方法を講じて絶滅をはかった(北海道蝗害報告書)。その土盛は現在の手稲区山口の砂丘にバッタ塚として存在する。
蝗虫の被害は、移住間もない農民たちの生活を直撃した。十六年の「札幌区各村移民景況取調復命書」によれば、円山・琴似・発寒・山鼻・上手稲・下手稲各村の場合、収穫物のうち、麦は三分の一、粟・黍・その他雑穀は十分の一であった。前年に入植したばかりの山口村の場合も、収穫物は多いものでも粟一石八、九斗、そのほかでも五、六斗、甚だしいのは種子さえないものが十中八、九であった。また、月寒村においても収穫物は、蝗虫と旱魃の被害で十分の二であった。このため、移民たちは生計に困難を来たし、蝗虫駆除に雇われたり、女性や子供は蝗卵採掘で売上金を得たり、あるいは壮年者は出稼ぎに出るなどして越冬に備えなければならなかった(市史 第七巻)。
一方、人畜・耕作物を損傷する有害鳥獣すなわち熊・狼・野犬・鳥等の被害も甚だしいものがあった。このため十年九月札幌本庁は、管内に熊・狼猟獲の場合両耳を添えて官に申し出れば賞金二円を与えると諭達した。ことに熊は札幌付近にも出没し、十一年一月には円山村と丘珠村で三人を死亡させ、二人に重傷を負わせた。このため開拓使は、同年五月には獲殺奨励の給与額を増し、熊一頭五円、狼は七円とし、届出には四足を添えることに改めた。