開拓使の時期にライマン、アンチセル、ペンハローなどが道内や札幌周辺の地質、鉱物調査を行い、豊平川の上流域に硫化銅、沢鉄(ライモナイト)、硫化鉄、硫化鉛、石黄などの存在が確認されていた。しかし試掘するにはいたらず、開始されるのは明治二十年以降である。
『豊平町史』には明治二十三年から三十二年までの一〇年間における試掘申請二一件が一覧表となって収載されている。この内訳をみると、銅(四)、銅鉛(一)、銀鉛(一)、銀銅鉛(二)、銀銅(二)、金銀(三)、金銀銅(一)、砂金(三)、石油(四)となっている。石油は望月寒川上流の油沢(豊平区西岡)が試掘地で、すでに十年十一月に高見沢権之丞、今野松五郎により発見されていた(北海道鉱山略記)。十年代にも二度ほど試掘をしたが失敗に終わり、二十三年以降の四度の試掘も十分な成果をみなかったようである。油沢の石油試掘はその後何度も行われたが、現在までいずれも成功をみた例がない。
石油以外は主に定山渓の白井川、赤川、薄別川、小樽内川の流域が試掘地である。その中で特に注目されたのは、北海道鉱山会社による白井川、薄別川流域の金銀、銅鉛の試掘である。銅鉛の方は二十七年に許可となり、二十九年に無効取消処分にあったが、金銀は白井川鉱山として開鉱にいたり、三十一年には五二八トン余を採掘し、費金は二万四九〇六円を要したという(北海道庁第一三回拓殖年報)。だが間もなく閉鉱に追い込まれたらしく、定山渓で諸鉱山が本格的な採掘を行うようになるのは大正以降である。
また、上手稲村の右股(現西区平和)では、二十八年七月に山鼻村の杉浦丑次郎が札幌鉱山を開き、金銀の採掘を行ったというが(手稲町誌 上巻)、札幌鉱山の詳細は不明である。