写真-3 新琴似兵村中隊本部跡(平成3年4月撮影)
四番通をはさんで中隊本部の向かい側が練兵場で現在は新琴似小学校敷地である。練兵場に付設する射的場の設置には苦労したようで、道路を仮に使用し、本格的な練習は山鼻まで行かなければならなかった。福岡県出身二十年組の出田平馬の回想談に「本兵村の如きは、平原の中にありて、部隊の射撃場を設くるが如きは、多大の経費労力を以てするに非らざれば、不可能事である。故に四番通の北詰、道路予定地に樹木を縦と横とに積み重ねて、之を射朶として中隊に於ける射撃自習場とした」(新琴似兵村史)という。
二十年改正の屯田兵本部概則により、前期兵村で必要に応じて設置してきた学校と授産所を全兵村に給与することになった。学校は「一宇ヲ毎中隊ニ支給シ、之ニ所用ノ器具ヲ属ス」とし、授産所は事業場の名で「養蚕製糸ノ器具及麻蒸場並ニ製麻器具ヲ属ス」ことになったが、後者は二十三年改正給与規則により各兵村四棟の建築となり、さらに翌年の改正で養蚕製麻に限らず土地にあった授産事業を営むよう改定された。新琴似では学校を二十年十二月練兵場西側に設置、「五日正午十二時開校式執行あり。此日臨場諸氏は屯田兵本部家村次長、本多大隊長(中略)本校生徒九十二名の中出校せし者八十四人、其父兄の来観せる者四十八人余ありて、中々の賑ひなりと」(北海道毎日新聞明治二十年十二月七日付)。のちに校地を練兵場跡地に広げ、現新琴似小学校の前身となった。事業場については二十年九月「第一大隊第三中隊ニ属スル事業場一棟ヲ同中隊共有物トシテ下付」(屯田兵沿革)したとあるが詳細は不明である。医療は前期兵村同様すべて官費によったが、独立した病院を置かず、中隊本部の一室を診断所として医官が駐在し治療にあたるほか、兵村内の衛生保持、伝染病予防に努めた。
篠路兵村の中隊本部建築は、入地してくる二十二年六月に兵屋を完工させているので、これと同時期であったと思われる。その位置は現在の屯田小学校の敷地で北区屯田七条六丁目、中隊長等の官舎はその北側にあった。解隊後ここを兵村事務所として使用したが、当時の様子を『篠路村沿革史』は次のように述べている。
兵村事務所
明治二十二年七月、屯田兵移住当時第四中隊本部トシテ建設サレシモノナリ。当時中隊長(歩兵大尉)其ノ他中少尉曹長軍曹等七、八名詰切リ、兵士ニ教練ノ傍ラ各戸ニ就キ開墾伐木ヲ励行セシメツヽアリシナリ。二十五年七月十五日、兵員一同予備役ニ編入サレシモ、中隊本部ハ依然トシテ存置サレタリ。
次デ二十九年三月三十(ママ)日、後備役ニ編入ト同時ニ中隊本部ハ引揚ゲラレ、而シテ兵村事務所ト改称シ、兵村監視ナル者一名(曹長)アリテ兵事及兵村一切ノ取締ヲ為セシガ、明治三十年兵村監視廃止トナリシモ、該事務所ニハ兵村委員二名ヲ常置シ、兵村ニ係ル一般ノ事務ヲ整理シツヽアリキ。明治三十九年四月一日、篠路兵村ハ琴似村ノ管轄ニ移管サル。
明治二十二年七月、屯田兵移住当時第四中隊本部トシテ建設サレシモノナリ。当時中隊長(歩兵大尉)其ノ他中少尉曹長軍曹等七、八名詰切リ、兵士ニ教練ノ傍ラ各戸ニ就キ開墾伐木ヲ励行セシメツヽアリシナリ。二十五年七月十五日、兵員一同予備役ニ編入サレシモ、中隊本部ハ依然トシテ存置サレタリ。
次デ二十九年三月三十(ママ)日、後備役ニ編入ト同時ニ中隊本部ハ引揚ゲラレ、而シテ兵村事務所ト改称シ、兵村監視ナル者一名(曹長)アリテ兵事及兵村一切ノ取締ヲ為セシガ、明治三十年兵村監視廃止トナリシモ、該事務所ニハ兵村委員二名ヲ常置シ、兵村ニ係ル一般ノ事務ヲ整理シツヽアリキ。明治三十九年四月一日、篠路兵村ハ琴似村ノ管轄ニ移管サル。
第二横線をはさんで西側が練兵場である。射的場は発寒川の北岸にのびる砂丘を利用したというが、本格的な訓練はやはり山鼻まで行かなければならなかった。学校は練兵場の北側に位置し、二十三年六月長永簡易小学校の名で開設、「翌二十四年私立と為り、海南尋常高等小学校と改称し、二年の後再び公立として尋常科を置き補習科を設けたりしが、其進歩今日に至り目下職員十四名、生徒百五十余名」(北海道毎日新聞 明治二十九年十月二十五日付)となって二十九年高等科併置の祝賀会を催した。現在の屯田小学校の前身である。
事業場は一番通に第一、二番通に第二、三番通に第三、学校敷地につながる四番通に面して第四事業場が設置された。なお後期兵村から住区画の周辺に日常生活物資を供給する商店が開設されるようになるが、札幌の両兵村とも目立つほどの商業区(番外地と通称)はできなかった。新琴似で四番通周辺に、篠路で一番通と第二横線の交差するあたりに開店するものがあったが長続きせず、本格的な営業活動は解隊後である。