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殖民的評価

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 屯田兵の開墾実績をどのように評価すべきなのか。殖民的分野での成果を大きく認め、その存在を積極的に認めようとする人たちが早くからいた。開拓使時代では津田仙が兵村を視察し「兵役に服せしめ、其余暇を以て農事に就かしめしに、此の如く容易に其富を致し大いに産業の途を開きたる」(北海道開拓雑誌 一三)ことを称え、札幌県時代には田中不二麿が「農桑ノ業ニ従事シ、頗勉励ス」(札幌県復命報告書)と言い、道庁ができてすぐ視察にきた井上外務、山県内務両大臣は「其開墾ノ成績ハ燦然トシテ観ルベク(中略)一般移住農民ノ状ニ比スレバ、殆ンド同年ニシテ語ル可キニ非ズ」(北海道漁業ニ関スル意見幷ニ開墾及ヒ運輸等ノ事)とまで政府の事業を自賛した。「耕牧自適、恒産に安する良豊家たる者は屯田兵なり」(北門新報明治二十九年四月一日付)という見方になると言いすぎだろうが、集団的拘束的な開墾作業は一般移住者の成績より効率は高かったと思われる。
 札幌四兵村に江別野幌兵村を加え、屯田兵が開墾した耕地と札幌郡全耕地面積の比率は、西南戦争直後の十一年で三〇・五パーセント、四兵村がそろった翌二十三年で三一・六パーセント、二十七年が二六・二パーセントであるから、札幌周辺の明治二十年代において三割前後の耕地が屯田兵によって開かれたものであった。一戸一万五〇〇〇坪の給与地をどのくらい開墾したかくらべると、三十三年では西永山兵村で九四パーセント、東永山八〇パーセント、茶志内七七パーセントと高い成墾率を示すところもあるが、全道平均は六三パーセント、札幌の四兵村は次の通りで、給与地の五~六割を耕地にしていた。
琴似兵村  五七パーセント (開村後二五年)  山鼻兵村 五二パーセント(同  二四年)
新琴似兵村 五一パーセント (同  一三年)  篠路兵村 五七パーセント(同  一一年)
(上原轍三郎 北海道屯田兵制度)

 屯田兵とその家族が解隊後もその土地で生活し続けた割合はどのくらいか、統一した数字はないが、個々の兵村の事情をみることにする。琴似兵村は予備役が終わると「従来の束縛を脱したので、職業の都合上、他に転住する者あり。又失敗して退去する者あった」(琴似兵村誌)という。三十四年土地登記、三十七年後備役満期で移動が激しく、開村後五〇年を経た大正十三年の在村者は三〇戸だったから、定着率は一二・五パーセントである。転出した二一〇戸の内、この時転居先がわかったのは二三戸にすぎず、在村者と音信がほとんど途絶えていたのであろう。山鼻兵村は資料がなく定着率の算出ができない。ただ開村後三五年たった明治四十四年の山鼻倶楽部設立時の会員数が三〇人という数からすると、琴似兵村と同じくらいなのだろうか。ここは東屯田と西屯田で大差があり、守谷民治の大正元年回顧談では「西屯田は……今日残り居るに蓋し十分の一、二ならん。東屯田は……成績宜しく、今日十中の九は残り居らん」(河野常吉編 札幌資料)というので、山鼻兵村のうち東屯田だけをとり上げれば、全道兵村中最高の定着率を示すことになる。
 新琴似兵村は開村後二四年、予備役終了後一六年の四十四年で在村者八八戸、四〇パーセントが残っていたが、その中に三三戸の他地域への寄留者がいるので、実質住居者は二五パーセント前後だろう。その二五年後には二一戸、九・五パーセントに減り、別家を含めても四二戸、一八・六パーセントである。「今日村に給与地を所有せるは僅かに三十戸余であり、全数の六分強にしか当ってない有様であり、さればとて他に転出せしものも余り香しい者は少ないと云う」(新琴似兵村史)と五〇年後の様子を伝えている。篠路兵村は度重なる災害で、三十八年(入地一六年、予備役終了後九年)で残留戸数は早くも七二戸に減った。その後も「転住する者多く、部落の人口は逐次激減して、移住当時の三分の一になるに至り」(篠路兵村の礎)、開村五〇年時では二五戸が在村し、一一・四パーセントの定着率であり、一四戸の別家を含めても一七・七パーセントである。
 このようにみると、予備役を終了し後備役に変わると多くの離村者を出し、次いで三十四年土地登記、三十七年兵制廃止がまた大きな転機となって兵村の住民を入れ換えていったことがわかる。開村五〇年時点でほぼ一〇~一五パーセントの当初入地者ないしその子孫が定住していたことになる。