それでは新区の区域、すなわち隣接郡村との境界はどこかとなると、必ずしも明らかではない。札幌支庁は三十二年八月二十二日付で区域図(案)を道庁に提出し、道庁は翌年十月十五日付で確定図を札幌区役所に渡しているが、それらの所在は今日確かめられない。そこで区制施行時に近い区役所製作図(内務省への特別税禀請書に添付したもの。「明治三十二年区会ニ関スル書類」に綴込み)をもとに、区域を示すと図2となる。原図の縮尺はほぼ一万分の一だが測量図でないため、その境界線を大正五年測図五万分の一地形図札幌(大正七年陸地測量部発行)に転写し、かつ四十三年藻岩村の一部を区に編入する際の資料をもって修正したものである。
図-2 札幌区の区域(大正5年測図五万分の一地形図「札幌」部分)
これにもとづき、札幌区の境界を北端を起点にしてまず西側からみていくことにする。北端は創成川と琴似川の合流点で、今日の創成川下水処理場の北側にあたる(図2―ア)。そこから西の境界は琴似川をさかのぼり、JR函館本線付近で合流する無名川に入る。この合流点が区の西端(イ)にあたり、無名川を水源までさかのぼると中央区北一条西二〇丁目に至り、西二〇丁目道路を南三条まで直線で南下(ウ)、南三条道路を西一三丁目まで東進する。このあたりは山鼻兵村開設時から境界が複雑で、西一三、一二、一一丁目は南一条道路を境にし、西一〇、九丁目は南二条道路、西八丁目は南六条道路、西七~三丁目は南七条道路を境とし、南七条西二と西三丁目の間に達する(エ)。
それから鴨々川を豊平川との分流点までさかのぼるが、原図によると南八条の西三丁目道路両側とも区には属さず、鴨々川左岸でも中島公園競馬場用地は区に含まれている。さらに鴨々川分流点から豊平川上流を南二二条あたりまでさかのぼり、その西岸の一部が区に属するので、現南二二条橋あたりが区の南端(オ)にあたる。ここから豊平川河床中央線を北東方向に下ることになり、これが区の東側を形づくり、豊平川が東八丁目道路と接する地点(カ)は区の東端となる。東八丁目道路を直線に北上し、東区北一一条東七丁目東区役所敷地の北東角に至り(キ)、そこから西折して北一二条道路を創成川まで至る(ク)。この間、東区北一一条東四丁目に一部三角状の札幌村域がはまり込んでいる。創成川の北一二条橋からは河道にそって北上し、起点(ア)につながるまでを境界とし、境界に囲まれた土地を区の区域とする。
右の区域と境界にかかわり、いくつか確定しかねる地点がある。その一つは創成川と琴似川にはさまれた北区北二六、七条以北の帰属問題である。そこは新琴似兵村用地に関連しており、区制以前は札幌区域外であった。明治二十年、道庁で札幌区と琴似村の境界測量を実施し、創成川第二水門西方坂清松居宅の南端を基点とし標木を設け、そこから西へ向かって直線に琴似川まで延長予定の幅一〇間の道路線を境としたからである。ところが三十二年区制施行時に道庁では区の境界を創成川と琴似川の合流点に求め、この土地を区に含めたようで、「殆ンド区ニシテ琴似村ノ如ク、琴似村ノ如クニシテ区ノ如ク、漠然トシテ全ク不確定ノ状態」(境界変更ニ関スル書類)になってしまう。これの解決は四十三年の境界変更(北海道庁告示第二三七号)を待たねばならないが、区制施行時の区域には、この土地が札幌区内であったとみなさなければならない。境界についてはほかにも、円山村東辺、山鼻村北辺及び鴨々川分流点以南部等の疑問部分が残っている。
区の面積を図2をもとに概則すると、おおよそ四四〇万坪(約一四・五平方キロ)である。「北海道庁統計書」明治三十二―三十三年版は、札幌区の面積を〇・九三二方里とし、それ以前と同じであるが、三十三―三十四年版には三十五年十一月改訂として〇・九六〇方里と載せ、三十五年版に至り三十五年十二月三十一日現在として〇・九六二方里(約四四八万坪)とし、以後はこの面積を継承していく。図の最北(ア)と最南(オ)の直線距離はおおよそ二里一七町(約九・六キロメートル)、最西(イ)と最東(カ)はおおよそ一里四町(約四・四キロメートル)、但し、(イ)と(キ)間はおおよそ三三町(約三・六キロメートル)である。区役所調査になるという北海道毎日新聞記事(明33・2・7)は区の広袤を東西三〇丁、南北一里二五丁と載せている。どの地点を測定しているか明らかでないが、いずれにしても前述の予定道路以北を、区役所では行政域とみなしていなかったのかも知れない。
区域が定まるとその土地に居住する区民がきまる。区制第四条は「区内ニ住居ヲ占ムル者ハ総テ区住民トス」ると述べている。区制施行日の人口は三十二年八月末日をもって調査日としたが、それによると新札幌区の人口は三万八七三八人であった。道庁告示(32・9・26)による最終調査数は、札幌区三万八八七四人、函館区八万三二八五人、小樽区六万五七七七人で、札幌は函館の四七パーセント、小樽よりも二万七〇〇〇人ほど少なく、面積、人口ともに三区で最小区であった。なお三十二年末日の人口は四万五七八人、戸数七〇〇九戸とある(北海道戸口表)。
住民の中で、日本国民にして公権をもつ独立の男子(二五歳以上)の内、次の三要件を満たすものを公民と呼び、特別の資格を持つことになるが、特免、例外規定もあった。
① | 三年以来区の住民であること。 |
② | 区の負担(税など)を分任していること。 |
③ | 区内で地租年額五〇銭以上を納めるか、直接国税年額二円五〇銭以上を納めるか、もしくは耕地宅地を三町歩以上所有していること。 |
この中でも③項が重要で、区会議員の選挙被選挙権とかかわった。公民資格者は区内に五〇〇人以上はいるといわれたが、施行時の調査結果によると三一五人にすぎなかった。すなわち③の内で、
ア 地租五〇銭以上 一八四人
イ 直接国税二円五〇銭以上 一八一人
ウ 耕宅地三町歩以上 一〇人 計 三七五人
イ 直接国税二円五〇銭以上 一八一人
ウ 耕宅地三町歩以上 一〇人 計 三七五人
その内、二要件を兼ね備えている者が六〇人おり、実人数は三一五人となる。公民人数と戸数の割合をもとめれば四・五パーセントで、二二戸に一人の公民がいたにすぎない。「札幌区史」は四十二年末の統計をもとに、「札幌に於ける現住民は、未だ札幌出生者の天地にあらずして、内地府県の出生者が、漸次札幌に土着永住の観念を生じつゝある過渡時代の、一種の自治団体」と評したが、こうしたきわめて限定された公民状況をも述べているのであろう。