札幌で実業協会と憲政党の対立構図が生まれた頃、中央政局は第二次山県有朋内閣が普通選挙の要求にさらされ、伊藤博文は新政党結成の準備活動を続けていた。三十三年九月憲政党を完全に吸収し、伊藤を総裁とする立憲政友会が結成され、憲政本党から尾崎行雄等がこれに参加するにいたって、旧自由、進歩両党の政争関係は大きく状況を変えることになり、三十三年十月第四次伊藤博文内閣が成立した。札幌の政界はその影響をまともに受けることになる。
会ができるとすぐに札幌の実業協会、憲政党関係者へ入会と札幌支部結成の働きかけが本部からなされ、札幌の多くの関係者がこれに積極的に呼応した。十一月には谷七太郎を委員長とする四四人からなる札幌支部創立委員会ができ、事務所を現中央区大通西一丁目に設け、事実上の政党活動を開始した。本部からたびたび特派員が札幌に来て、会員確保と協調体制の確立につとめ、札幌からも東京に出向いて発会式の準備、中央政局の情勢把握にあたった結果、十二月中に札幌支部発会式を行うことになり、九六人からなる準備会が設けられた。しかし、帝国議会における北海道十年計画の審議にからんで実現をみず、遅れて三十四年六月二十八日と決まったが、会の重鎮星亨の刺殺事件が発生し、再延期のやむなきに至った。その葬儀には創立委員会から浅羽靖、土居勝郎が出席し、六月二十六日豊平村経王寺で在札関係者による追悼会が行われた。
立憲政友会札幌支部発会式はいよいよ七月五日大黒座で開かれ、本部から片岡健吉、尾崎行雄等が出席し、支部規約、決議(活動方針)、役員等が決まった。それによると札幌支部の管轄は十勝を除く旧札幌県内で、会員は一三一九人(うち憲政党支部から引き続き入会した者九二六人、新たに入会した者三九三人)で発足し、当面一〇〇人の評議員を選んだが、内三〇人を札幌区内に割り当て、谷七太郎、土居勝郎、林清一、阿部宇之八、吉植庄一郎、村上祐、小町谷純、入山祐次郎の七幹事が支部運営にあたった。
支部の活動方針である決議は次の一一項目からなり、実業協会、憲政党支部以来の懸案が継承されている。即ち、一、行政の刷新、官紀の振粛、二、国有未開地処分法の改正、開拓の進捗、三、鉄道速成、港湾修築、運輸交通機関完備、四、漁業制度の改善、金融機関の設備、五、鉱業法規の改正、六、区町村自治の基礎、基本財産造成、七、治水方針と実効、八、北海道大学の速成、九、道会権限拡張、道会法改正、一〇、衆議院議員選挙法改正、本道選出議員増加、一一、本道より貴族院多額納税議員選出、である。支部と本部の関係は憲政党にくらべてはるかに強く、支部運営は支部会員の醵出金によるが、本部特派員の経費を負担した。発会式で横井時雄特派員が「大目的を達するためにあるのみ」と演説し、本部の綱領を遵由し忠誠であることが宣言されたのである。
支部発会をもって「札幌にも純然たる政治団体の存在を見る訳なり。曩に函館支部は札幌に先って創立を告げ、其生長見るべきもの有りと伝ふ。函館は乃ち北海道政党建造の先輩なり。然れども其北海道に於ける勢力の如何を見れば、其地理的関係より、又其行政機関の中枢に在るより、現在の形勢に於て已に札幌は北海道の三分の二を占有する形に在り」(道毎日 明34・7・6)と胸をはってみたが、内部の不統一は覆うべくもなかった。「政友会内は大体に於て二個の潮流あり。即ち旧憲政党時代の立役者なる者と、実業協会より投じたる者と是なり。而して旧憲政党の一体は実業協会の一派を迎ふると共に、又別れて二と為り」、支部発会後まもなく行われた初の道会議員選挙で対立した。この調停をはかるため、本部から長谷場純孝総務委員が来札し、谷、阿部、吉植、村上の四幹事は役職を辞任、『北海道毎日新聞』『北門新報』『北海時事』の三紙は三十四年八月三十一日をもって廃刊とし、新たに三社合同して『北海タイムス』を発刊、政友会支部の一本化につとめた。党中会派が生まれては消え、離散集合を繰り返しながらも、三十九年には札幌で政友会北海道東北大会を開くまでに至り、大正十年の大会には原敬総裁が来札した。大正二年には道会の大正、革新の「両派を解散せしめ、至極円満に局を結び、会員の一致和合に力むることに協定」(北タイ 大2・7・19)したが、この年立憲同志会が生まれ、五年憲政会となるや、政友会と憲政会の対立構図へと変わっていった。