このように救助内容を厳しく限定したため、妻子が飢餓に迫っているにもかかわらず、なかなか救助を受けられないといった現実があった。国家が、留守家族の救護を「隣保相扶」に強く求めたのは、政府が軍事に追われ、充分に軍人遺家族に援護の手を差し伸べるだけの余力がなかったことによる。このため、日清戦争後、各地に結成された軍人家族保護を目的とする尚武会や軍人家族保護を唱えた諸組織が、隣保相扶に積極的に携わった。
実際に日露戦争当時、地方行政機関の指導の下に各種の戦時協力組織が設立された。そのおもなものに次のようなものがあった。
〔名称〕 〔主催〕 〔設立〕
札幌奉公義会 札幌区 明37・ 3・10
軍人家族保護会 札幌支庁 明37・ 3・12
札幌懇話会 区有志 明37・ 8・ 6
甲辰出征軍人慰問会 札幌神社祭典五区 明37・ 8
軍人遺族救護義会 札幌区 明37・ 8
北海道基督教徒同情会 キリスト者 明38・12
軍人家族救助会 札幌区有志 明37・ 9
尚友会 札幌区有志 明37・ 8
札幌同情会 札幌区有志 明37・12
これらのほかに、既存の北海道尚武会、愛国婦人会(三節参照)、帝国婦人協会(三節参照)が組織だった活動をしていたことはいうまでもない。いずれの組織も出征兵士をして後顧の憂いなからしめんがための留守家族の保護を歌い文句にしていた。三十七年九月、北海道庁長官で北海道尚武会会頭の園田安賢は、「謹て出征軍人諸君に送る」を『北海タイムス』に寄せ、出征兵士に「後顧の念を去り国家の為の益々奮闘勇進せられんことを望む」(明37・9・3)と激励した。
さらに尚武会は、家庭婦人にもその任務遂行の役割を担ってもらうべく、同年十二月札幌支部管内各町村のおもだった者、学校教員等の夫人・令嬢に尚武会委員を嘱託し、「愛国婦人に告ぐ」の趣意書を発した。それには、「国家安危の時に際し男子は凡て戟をとりて戦場に向ふにあらざれば国資調達の事に尽瘁せざるべからず殆と身心に余地なきを以て軍人家族遺族の救護負傷者の慰問慈善的後援的事業は女子にて引受くるの覚悟なかるべからず女子の力に依り戦捷を占め国を起したる例少からず女子の同情は最も士気を鼓舞し弱者をも勇に病者をも起しむべし」と述べ、その職務内容として、尚武会募集金一戸一〇銭平均であること、軍人家族遺族の困難者に適当の職業を勧め、その製品の販売を紹介すること、毎月一度は軍人家族を慰問すること、軍人の出征、凱旋、負傷者の帰営、帰郷、遺骨の到着、葬式にはなるべく多数の婦人を誘引し、送迎斡旋すること等が詳細に述べられていた(北タイ 明37・12・17)。
このように、札幌区では以上の尚武会、または奉公義会の二大組織が献金の総合窓口となっており、ここを通じて救護すべきと判断した場合に限り、救護金が下付されるようになっていた。札幌奉公義会で三十七年十二月中旬現在、救護の対象とした出征軍人家族は二八戸で、一戸平均月額一円九〇銭でしかなかった(北タイ 明37・12・21)。一方、尚武会で札幌区・札幌郡合わせて三十七年十一月段階で救護の対象となったのは六戸で、一戸平均月額二円でしかなかった(北タイ 明37・11・27)。当時札幌区内の家賃が月額一円七〇銭もしていることから(北タイ 明37・10・11)、これは決して充分とはいえない金額ではなかろうか。
北海道庁では軍人家族に対する救護を、現金給与ではなしに「生業扶助」の方向に出ている。三十七年八月、各支庁・区役所を通して次のような通牒を出した。
一 軍人家族の労働に堪るものを附近製造会社工作場等に雇入れしむる事
二 軍人家族中農業に堪る者を附近農場又は大地主等に依頼し農事に従事せしむる事
三 婦女労働等に堪へさる者等には隣佑相計り洗濯裁縫其他適当の業務を授くる事
四 労働に堪へさる女子には商家の子(ママ)僧又は他家の女中子守等に斡旋する事
五 出征軍人家族にして自己に田畑を耕作し得ざる等の如き者に対して隣保互に耕作及家計等を補助する事
六 其他労役大小間使等を要する時は可成軍人家族を使用する事
二 軍人家族中農業に堪る者を附近農場又は大地主等に依頼し農事に従事せしむる事
三 婦女労働等に堪へさる者等には隣佑相計り洗濯裁縫其他適当の業務を授くる事
四 労働に堪へさる女子には商家の子(ママ)僧又は他家の女中子守等に斡旋する事
五 出征軍人家族にして自己に田畑を耕作し得ざる等の如き者に対して隣保互に耕作及家計等を補助する事
六 其他労役大小間使等を要する時は可成軍人家族を使用する事
(北タイ 明37・8・16)
この通牒を受けた札幌区では、区長加藤寛六郎が九月十五日、区内一〇の工場・会社を呼び、軍人家族への授産方を依頼した。その工場とは、札幌麦酒会社、北海道製麻会社、札幌製粉会社、石川製糸場、札幌活版所、山藤活版所、松崎機織場、名取甲斐絹織場、北海タイムス社であった。この結果、これらの工場・会社は軍人家族を優先的に採用することを快諾するとともに、さらに島津製綱所と山田糸取所が採用を申し出た。この旨について同月二十一日、出征軍人家族を区役所へ招集して生業上について懇談を持ち、男一人、女四人が千葉製綱所、島津製綱所の二工場で働くこととなった(北タイ 明37・9・21~23)。このような「生業扶助」の方法は、幼児や病人を抱える家族にとっては至難の技であったが、皮肉にも女子労働者の増加をもたらしたのである。
三十八年四月末の奉公義会の救護軍人家族は四九戸に増加し、一戸平均月額は二円五三銭で、おもな生業は、日雇、行商、会社職工、木賃宿、筆耕、下宿、髪結、馬具職工、農業、製綱所職工、馬車追い、製糸場職工であった(北タイ 明38・5・3)。戦死者の数も次第に多くなり、三十八年八月奉公義会では、出征軍人軍属遺族の生業扶助方法調査委員会を持ったり、経木真田(きょうぎさなだ)編みの講習会を開き、輸出品として奨励するに至った(北タイ 明38・10・4)。救護軍人家族は、同年九月段階では一〇三戸、四三一人にものぼった(同前)。
実際、戦死者を出した家族は悲惨であった。このため、父や夫や兄弟など一家の働き手を失った家族は、日々の生計に困窮し、奉公義会や尚武会の救護金を頼りに日雇などで暮らしを立てなければならなかった。また、軍人遺族には煙草売り営業などを優先的に付与した(北タイ 明39・3・24)。