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俳句結社の増加と運動の本格化

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 前巻の時期における文化活動は、官員・教養人のたしなみ・娯楽という面が多く、意識された文化運動の側面はほとんどみられない。本巻の時期に至っても同様の状況が続くが、同時にその中から文化運動としての動きが芽生え、発展していった。本巻では、教養等の活動の記述はほぼ明治期に止め、文化運動により力点をおいて記述したい。ただし、この両者の区別が必ずしも分明でない点に、むしろこの時期の特徴があると思われるので、両者の書き分けも必ずしも判然としない。また漢詩については、特に文学運動的要素を強く持っていたとは思えないので別立てとした。
 すでに前巻で記したように、俳句結社としては明治二十年代に有倫会、園友会が結成され、その他薫風社、感吟社、金蘭社という名の団体の活動が伝えられている。三十年代に入ると、まず三十二年に田中呉渓若月北水らによって「北水吟社」が結成されたが、これにはのち俳誌『時雨』を刊行して北海道俳句界の中枢の一人となった牛島滕六も参加した。牛島は二十四年に永山兵村に入植したが、それ以前に河東碧梧桐内藤鳴雪らに師事しており、すでにかなりの力量を身につけていたと思われる。翌三十三年一月に牛島は吉見香漣祝鱸江らと共に俳誌『白雪』を刊行したが八号で廃刊し、三十五年には安藤天涯富永眉月らと一声会を興し、三十六年には天涯、眉月、香漣らと『若葉』を刊行したが、四号で廃刊した。また三十二年には久保二瓢梁田凡口らが「札幌吟社」を、三十四年十月には「旭翠吟社」と名称を改め、内藤鳴雪らと交流を持った。これにも牛島が参加したといわれる。このほか三十四年十月には札幌農学校松村銀峰らを中心とした俳句結社「無逸会」を結成し、『ホトトギス』に投句なども行った。また農学校には「アカシヤ会」という名の結社もあった。
 三十六年に至り、この「アカシヤ会」「無逸会」の同人に牛島らが加わり、「北星吟壇」が結成されたが、三十七年には北海タイムス社に入社した青木青葉(のちの郭公)も参加し、『ホトトギス』の影響をうけつつ活動した。このように明治三十年代の前半ですでに月並俳句を脱し、新しい俳句をめざした俳人がかなりにいたことが知られる。同結社は三十九年に「北星吟社」と改めた。
 しかし同時に、三十五年三月四日付の『小樽新聞』では、「札幌の発句月並会」の名で「札樽吟社」の月並会が札幌で開催されたことを報じており、これに道庁役人連による「松風会」が参加したことも記されている。札樽吟社の成立年月は今のところ明らかにし得ないが、傾向はこの記事内容からみると、少なくともこの時期には旧派であったようである。このほか三十五年十月八日付の『北海タイムス』には、「北海道の俳句団」の記事中、札幌区は「札幌吟社を始めとして松風会雅友会六花会、其他二三の俳団ありて月並に運座に中にはその職業をも余所にして苦吟に日を送るもの尠からず」とあって、初見の結社もあるほか、やはり旧派もかなりに残っていることを推察させる。さらに三十四年には、前年創刊した秋田の『俳星』の最高幹部島田五空が来札しているが、これが始めての有力雑誌の幹部の来札とみられ、地元に相当な刺戟を与えたようである。

写真-1 札幌の発句月並会開催の記事(小樽新聞 明35.3.4)

 こうした結社活動のほか、新聞・雑誌等で扱っているものがある。『北海道毎日新聞』では、おそらく二十年代末頃から「俳諧道場」という名で投句の募集を行っている。三十四年七月十六日付の同紙では「俳諧道場八月月並募集」の広告があり、題、締切日(八月八日)、選者(東京二人、岩代、岩内各一人)、賞等について記している。
 短歌では、今のところこの時期結社の結成は見出していない。旧派あるいは新しい文芸運動的な要素を持った短歌結社の結成は、日露戦争中あるいは戦後のことのように思われる。
 このほか、一般の雑誌についてみれば、前巻の時期に引き続き北海道教育会の刊行する『北海道教育雑誌』に「文苑及家庭」欄が設けられ、主として教育関係者の作品がかなりの数掲載されている。寄稿者は、前巻に引き続き北海道師範学校の大村益荒(縈山)、同石森和男のほか、必ずしも札幌在住ではないが、小田観螢浜名秋水上田頑童などがかなりの数の短詩型文学作品を掲載している。また札幌農学校では二十五年に創立された学芸会機関紙『蕙林』が二十九年に『学芸会雑誌』と改め、さらに三十四年文武会発足によって『文武会雑誌』(のち文武会会報と改題)となったが、これらにも前巻の時期にみられるように、新体詩を含んだ短詩型の作品が掲載されている。例を第三十四号(明33・12刊)でみると、「神の秘密」「見出しけり」(ゲーテ作の訳)「鎌倉」「あはれ」の四つの新体詩、および「落葉集」「積る白雪」と名づけられたそれぞれ数首の短詩が掲載されている。また有島武郎が三十三年十月と三十五年一月に「人生の帰趨」の上と下を掲載している。さらに三十五年十一月現在で北海文友舎という文芸団体が北海タイムス社員によって作られ、「知名の士に乞ふて文章詩歌俳句新体詩等の添削に応じ」(北タイ 明35・11・7)、すぐれたものは同紙上に登載することとしている。三十七年には文友舎発起者の一人である辻虚庵が「国語文法を講じ、和歌の添削を」(北タイ 明37・2・2)行う目的で敷島会を結成中と報じられており、文芸愛好家の層の拡がりを推察させる。
 また農村部でもこの時期「丸山俳句会」というものがあり、また『北海タイムス』(明44・4・7)には、手稲村前田農場内の花月吟社が毎月例会を開き八二回に達したと報じられているので、これによれば結成は三十七年の中頃になる。このほか、四十年に帝国製麻会社内に長谷部虎杖子らによって「北吟社」が結成された。
 この間、各結社の例会以外にもいくつかの活動がみられる。まず俳誌としては三十九年のおそらく一月頃に、北星吟社によって『北星』が発刊された。『北海タイムス』には三十八年十二月に第二号の課題等の記事があり、それによれば選者は「鳴雪、麦人、機一、幹雄」など主として東京の大家によったようである(12・22)。しかしこれは四号で廃刊となった。さらに同新聞三十七年十月十二日付には「北海五句集」の見出しで「新派の俳句を好まるゝ人々相謀り、今回北海五句集なるものを起し俳句の研究をなす由」としてその規則の基本を「一 北海五句集は専ら句作研究の機関として起る。一 同好者は何人たりとも加入するを拒まず。一 月並臭を帯ぶるものは絶対にこれを排す」とし、その他幹事、選者、発表様式等を定めた。ここでは第一回の幹事が山鼻村牛島滕六、第二回が同村牛島方として富永眉月となっている。
 このほか、結社以外の集会もいくつか同新聞にみられる。三十七年四月三日(神武天皇祭)開催十一州俳句大会予告記事(3・30)では、「派の新旧党の甲乙を問はず」集会を呼びかけている。同年十月には後の明月の俳家大懇親会が、翌三十八年九月には札樽吟社などの主催により文人観月会が開催されているが、この種の催しはこのほかにもかなり開かれていたと思われる。