ビューア該当ページ

教勢の推移と「クリスチャン」層

876 ~ 881 / 915ページ
 これまで大挙伝道を契機とした各教会の教勢の伸展を見てきたが、この時期の終わり、大正十一年までの受洗者数、礼拝出席者数の推移を概観すると図1・2のようになる。各数値の意味は各教会によって異なり、各教会には個別の事情に基づき数値が大きく変動するが、大勢はこの時期の終期に向けて全般的に増加する傾向を示している。特に大正四~六年には受洗者数が突出しているのを読み取ることができる。ただし突出した部分がそのまま礼拝出席者数に反映しておらず、信徒の教会定着にはなお課題があったことが窺える。

図-1 札幌における受洗者等数の推移(明治33年~大正11年,判明分)


図-2 札幌における礼拝出席者数の推移(明治33年~大正11年,判明分)

 この頃、札幌でもキリスト教徒が「クリスチャン」(キリストの者)と呼ばれるようになり、自らもその呼称に積極的な意義付けを行っている(北海光 第六〇号 基督者(クリスチヤン)と云ふ文字に就て)。この人びとがどのような社会層であったのか、またキリスト教がどのような人びとに受容されていったのかを以下に見ていくこととしよう。
 明治四十三年(一九一〇)にプロテスタント六教会(独立・浸礼・組合・北辰・聖公会・メソヂスト)は共同で『札幌基督教信徒名簿』を作成した。これに収録された八五三人(教役者を含む)のうち職業の記載がある四五〇人について見ると、内訳は、官吏または官吏家族が九八人、なかでも北海道庁鉄道・郵便局電話局の職員が多く、次いで農科大学その他の学校関係者(大部分が教員)が五四人、農科大学生が五六人、中学生・女学生・師範学校生徒などが四一人で、これに牧師・宣教師など教役者とその家族、医療関係・弁護士・新聞記者など知識人の自由業の職種を含めると、都市の中産階層(ホワイトカラー)が職業記載者の六六パーセントに達していた。初期の頃、教会を担っていたという自営の商人や製造業者は、数からすると一五パーセントにとどまっており、店員・会社員を加えても四分の一弱であった。都市の中産階層の割合が札幌でも大きくなっていた。
 しかしこの時期でも、札幌の中心的商業地であった創成川の西、南一条~三条通のうち、特に「巨商街」と呼ばれていた目抜き通り、南一条通の西一丁目から西四丁目の商店街に占めるクリスチャンの割合は、図3のとおり低いものではなかった。なかでも紙店の藤井太三郎・専蔵父子、同じく紙店の長野命作、靴店の岩井信六、書店の中村信以(のぶしげ)、砂糖商の石田幸八などは、それぞれの教会でも活動の中心となった信徒であった。また北海道製酪販売組合聯合会(酪聯。雪印乳業(株)の前身)を創立した宇都宮仙太郎佐藤善七黒沢酉蔵など、一群の酪農家の存在も札幌のクリスチャン像を特色づけた。都市の中産階層の比重が増大するなかにあっても、各教会それぞれの特色は存在し、独立教会(のちには北辰教会も)は農科大学関係者が多く、北辰教会北星女学校と固い連携があり、組合教会には商人がよく集まった(札幌とキリスト教 さっぽろ文庫41)。

図-3 南1条通(西1~4丁目)のキリスト教信徒の商店(明治43年頃,下絵は札幌商工新地図)

 時期はやや下るが、ハリストス正教会の昭和二年(一九二七)の『信徒名簿』によると、職業記載者六五人中、司祭・官吏・教員・医療関係者がほぼ半数を占め、製造業・商業(会社員・事務員を除く)が四分の一であった。製造業・商業の割合が先のプロテスタント諸教会の数値よりもいくぶん高いという程度で、ほぼ似た傾向であった。カトリックの場合は、信徒の社会層を示す数値がこの時期には得られないが、伝道の対象は知識人階層や都市中産階層よりも広い範囲に及び、低所得者層にも接近していたといわれる。
 プロテスタントでは明治四十一年頃、北星女学校のサラ・C・スミスが、豊平の北辰教会南里猪三郎宅で日曜学校を開校した。これはそれまで伝道の手を伸ばせなかった低所得者層への足掛かりを得ようとするものであったといわれる。また、大正二年に日本基督教会は南四条西一丁目に札幌福音館を設け、八年あるいは十年頃まで同地で活動した。札幌福音館の位置は月寒の歩兵第二十五聯隊への往復路に当たり、同館の開設は「軍人に伝道する目的」(日本基督教会北海道中会記録)と「重に区内東部の下級(注・下層の意)の子弟を集める為に出来たもの」(北タイ 大2・12・17)とされ、これまでの教会に少なかった市民層への新たな浸透を目指すものであった。しかしここは大正十年頃豊平に移り、おそらく先の日曜学校の活動を継承したのであろう、豊平伝道所あるいは豊平講義所として存続した。ただ、このような動きも、低所得者層への「クリスチャン」の拡大と、この市民層に根を下ろした教会を形成することには結びつかなかった。