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ルーテル、セブンスデー、救世軍の進出

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 札幌基督教会同盟を設立したのは七教会であったが、大正七年当時、すでに「当札幌には各派を通じて十一個の教会あり」(北海メソヂスト 第三巻二月号)と数えられていた。図4は大正九年時点の教会・修道院・関係学校等の分布図で、プロテスタントだけでも一二の教会を数え、カトリック・ハリストス正教会その他を合わせると、一六の教会と三つの修道院が存在していたことがわかる。二十世紀に入って二〇年間に教会の数が倍増し、山鼻・豊平・札幌村など郊外にも教会の分布が広がっていた。新たに札幌へ進出した教派・教会について、その動向を次に見ていこう。

図-4 キリスト教会等分布図 大正9年(1920)

 まずルーテル教会について見ると、フィンランドの福音ルーテル教会伝道会社派遣の宣教師ヨハンネス・V・サオライネンが、日本人牧師溝口弾一とともに大正五年夏来札、北一四条西四丁目に居住、伝道を開始し、翌年七月札幌福音ルーテル教会を設立した。しかし十二年、教役者の離札によってルーテル派の伝道は中絶した。
 次いで第七日安息日基督再臨教会(セブンスデー・アドベンチスト教会)は、明治四十一年に札幌で伝道文書を配布する活動を行ったが中絶し、大正五年八月、伝道師渡辺保之介が時計台近くに仮集会所を設けて活動を再開した。その後大通で天幕伝道集会を行ったが、八年に北海道伝道部会(千島・樺太を含む)を設け、H・F・ベンソン牧師を部長に選任した。十年には講義所を南七条西一一丁目に開設した。キリスト再臨の教理と第七日(土曜日)安息日礼拝を強調する同派は、「末世の福音」とも称していた。伝道再開の翌六年、前述の札幌の教役者会からの提携申し出を拒絶、既存の教会を批判し、その教会員も同教会の伝道対象であると表明したことにより、他教会からは警戒された(SDA札幌教会史「主をほめたたえよ」、北光 第三四号ほか)。
 救世軍は明治三十五年、「救世軍大演説会」(弁士・高城牛五郎)が催されたりしたが(北海教報 第六七号)、組織の設立には至らなかった。その後大正八年に北海道中隊本部を小樽から札幌に移し、同年七月に個別の教会に相当する札幌小隊を発足させた。小隊の位置は南四条西一丁目であるが、開設式にあたる開戦式は時計台で行われた。翌八月には救世軍大佐山室軍平が訪れ、「大集会」を開催したという(救世軍〔札幌〕小隊歴史)。
 このほか、大正五年に組合教会が北部講義所(北一三条西二丁目)を開設した。九年、小樽メソヂスト教会土屋捨吉琴似村の土屋鉄工場内に会堂を建て、伝道師を自費で招いて日曜日の集会と日曜学校を続けた。日本基督教会も桑園に日曜学校の分校を開設し、これが十二年には桑園幼稚園とともに桑園伝道所を生み出した。なおこのほかに「基督新教講義所」として講義所の設立許可を受けているものがあるが、これは農科大学基督教青年会寄宿舎汝羊(じょよう)寮のことである。