市制中改正法律は大正十一年(一九二二)四月十九日法律五六号として公布され(官報二九一二)、勅令二五五号で五月十五日からの施行が決まった(官報二九三二)。内務大臣名で同日付札幌区会に「其ノ区ヲ廃シ、其ノ区域ヲ以テ札幌市ヲ置カムトス。仍テ其ノ会ノ意見ヲ諮フ」文書が出され、五月二十日札幌区会は区を廃し市を置くこと、財産を包括し新しい市に帰属させることに同意した(区会会議録 大11)。
札幌区役所における市制準備は四月になるとすぐ開始し、臨時の二係を置き市制研究会を全庁的に組織して、近年市制を施行した市役所へ前例照会を行い、札幌市と同時に施行予定の道内区役所とも機構、分掌事務、職員待遇等の連絡をとりあった。また道庁主催の市制準備事務協議会が四月二十七、二十八日に開かれ、多くの指示が出された。道庁から五月六日付で「改正法律ハ五月十五日ヨリ之ヲ施行シ、六月一日ヨリ区ヲ廃シテ市ヲ置クコトヽ為ス見込」との通知を受けていたから、五月末までに準備を完了すべく繁忙をきわめ、特に市会議員選挙の有権者名簿作成に追われた。しかし、五月二十一日になって道庁から六月一日実施を延期する旨の通知が来た。理由は皇太子の道内行啓のため「奉迎事務ニ関シ特ニ万遺算ナキヲ期セシメン為メ、市制施行ハ行啓後ニ延期スルコトニ内務大臣ノ承認ヲ得タル旨、東京長官ヨリ通知アリタリ」(市制準備関係書類)というもので、大正十一年八月一日よりと決まるのは、七月二十六日付内務省告示一八二号(官報二九九五)によった。なお、道参事会は六月二十三日、区を市にする内務大臣の諮問を可とする答申を行い、あわせて区の財産処分を原案通り可決した。これが道参事会の初仕事である(北海道議会史 二)。
八月一日、市制施行日にあたり、道庁告示第五九〇号、札幌市告示第一号で前田宇治郎を市長臨時代理者に、第二号で区役所を引継ぎ市役所位置を決め、また諸条例規則が定められた。これらは市会未成立のため、北海道会法第一四条、府県制第八七条により北海道参事会の専決処分を受けたものである。この日、前田市長代理者は札幌神社、三吉神社、豊平神社に市制施行を報告し、八月三日中島公園元道博式場で挙行した祝賀会では、三〇〇〇人の市民を前に、区制以来「自治運用の機関は頗ぶる円満に進展致しまして、常に和衷協同の実を挙げ、以て今日の成果を見るに至りました事は特筆して誇示するに足る」(北タイ 大11・8・4)ものと述べ、これを「特有の市風」と呼んだ。
提灯行列、花火打上げ、納涼写真会等多くの記念行事があった中で、三日市立高等女学校で開かれた記念講演会で、北大教授森本厚吉は「区が札幌市となりたりとて単に看板の取り換えしたるに過ぎず」と言い、文化時代の完全市民への成長を呼びかけ、衆議院議員東武は「本市に自治体無しと断言するに躊躇せず」と演説した(同前)。新聞紙上にも厳しい論評がみられ、「市民としての気分を新にする事が出来ても、市民と云ふ輝きの誇りのない計りか、市の体面も備へて居らぬ」(北タイ 大11・8・10)、「市民其者の人格の改造が必要……自治的精神の充実したる魂を入れ替て貰ひ」(北タイ 大11・8・9)たい等の記事が散見する。
多くの課題を抱える札幌市である。苦労して得た自治の拡張であったが、府県並になること、「内地」と同じ市であることと、前田の言う「特有の市風」をどう調和発展させていくか、多難な出発であった。