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洋楽の担い手

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 大正七年七月に冨貴堂楽器部が独立し、ピアノ、オルガン、ギター、レコード、楽譜などがおかれる。札幌にはアカシア楽器店などもあったが、冨貴堂楽器部は当時の高額洋楽器であるピアノを、圧倒的に数多く道内に販売していた(北海道音楽史)。昭和八年に、冨貴堂が今までの顧客を「尊い歴史」とリストアップし、さらに購買を促したであろう「ピアノ御買上先芳名録」(前川公美夫氏提供資料)の中から札幌分を拾いだしてみる。
 主にドイツ製である外国製ピアノの上納先は、個人では札幌病院院長の関場不二彦、豊平館の杉山正次、遊楽館九島ハツ古谷製菓古谷辰四郎、大藤井、その他浜田和三郎、西加二太、藤田昌。学校関係では、北海道帝国大学中央講堂、札幌市立高等女学校、山鼻小学校、中央創成小学校、北九条小学校、それから札幌放送局で、全部で一四カ所となっている。
 山葉ピアノの納入先では、ピアノ塾の鈴木清太郎熊澤良雄、小川千代子、横尾ユキ(子)といった演奏家、学校では札幌職業女学校、鉄道教習所、北海高等女学校、女子尋常小学校、札幌師範学校附属小学校、藤高等女学校、幌西小学校、北光小学校、大通小学校、札幌師範学校、第一中学校、第二高等小学校、大学病院、庁立高等女学校、劇場関係では、錦座美満寿館、神田館、サロン・ミツコシといった具合に、札幌だけで一二三件が載っている。
 札幌の名望家と学校教師を中心とする演奏家、そして主な小学校・女学校、映画館といったところにピアノがあった。空知管内の小学校長の長男に生まれた上元芳男は、昭和二年に札幌師範学校に入学してはじめてピアノにふれ、またラジオに接したという(上元芳男 合唱と私)。昭和初期に小学校の先生の初任給が五五円だったときに、アップライト型のピアノは、七、八百円だったという(横谷瑛司 音楽教育)。そして昭和三年に、冨貴堂へはじめてヤマハから派遣された調律師多米浩が赴任し、札幌のピアノの演奏環境も整ってゆく(多米実 楽器店・楽器製作・ピアノの調律、七十年の歩み 冨貴堂小史)。
 札幌の音楽私塾の草分として、鈴木ピアノ塾の役割は大きい。鈴木清太郎札幌師範学校卒業後、東京音楽学校に入り、昭和二年から庁立高等女学校の教師として帰札する。七年に高女を退職して円山にピアノ塾を開き、十七年まで続く(横谷瑛司 音楽教育)。第一回(昭7・11・19)、今井記念館で行われた試演会のプログラム(写真10)には、「塾生は主に学校の生徒方で、それに数名の小学校の先生方が居り、齢も九歳を先頭に二十四・五までの方々」と紹介する。翌八年十一月三日の第二回試演会(於今井記念館)のプログラムでは、鬼窪米子(庁立高女卒)がグルリット作「道化風ギャロップ」、笠原田鶴子(附属校四年)が「ラヂオ体操第一」を、そして二六人の塾生の最後のプログラムが、吉川綾子・藤田泰子(庁立補修)、米沢道三郎(大通小学校教員)、碇石敏二郎(石狩当別小学校教員)、山口孝(第二中学校卒)、鈴木清太郎の合奏サンサーンス作「死の舞踏」である(多米浩旧蔵史料)。

写真-10 鈴木ピアノ塾 第1回試演会(プログラム表紙)

 一方、『コラール』八号(昭5・6・27、多米浩旧蔵史料)で、札幌混声合唱団団員の職業を見ると、三五人中、自営業者はマネージャーの相澤俊郎(相澤商会)、杉山正次(豊平館)の二人、サラリーマンは東末吉(札鉄経理課の役人)、相庭アサ(女子高小教員)、鈴木清太郎(庁立高女教員)など二二人、女学校の卒業生や北大の学生は一〇人となっている。
 洋楽の担い手が教員などサラリーマンを核とする新中間層であったことは明らかである。