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乍恐願書を以御訴詔申上候御事
一当八月朔日之夜中より二日之朝迄大満水ニ而、千曲川・大石川・
飯塚川・沢入川四ケ所之川一つ罷成当村家居江押掛ケ、流死
之者男女弐百四拾八人、流失家百四拾軒、流失馬弐拾五疋
御座候、相残候家纔《ワズカニ》弐拾七軒御座候得共、柱・壁等押ぬき石砂
押込、家財雑物不残押流給物すきと無御座、只今迄之
村者干曲川本瀬ニ罷成申候御事@
一当村高四百七拾石五斗余之村方ニ御座候、前々より甲州・
越州江之馬次在所ニ而、 御巡見様御通被遊候節ハ御
宿茂被 仰付候儀ニ御座候、人馬附送仕所ニ右申上候通り
四ケ所之川端ニ而、
千曲川出水之節ハ村居危御座候ニ付、
市川孫右衛門様 御代官所之節、御検分之上御入用金
八百両余並御人足三千人余被 下置丈夫ニ御普請
被 仰付、 御慈悲を以只今迄村居相立罷有候所ニ、
此度之満水ニ而村東ハ千曲川、村南ハ大石川、村西ハ八郡川、 2
北者沢入川河除押切り、村前後左右より水押掛ケ、男
女逃候儀相叶不申、右之人馬・家財流死・流失仕侯、
依之相残り候者渇命ニ及難儀仕候ニ付、高野町御役所江
御願申上候所ニ、御見分被下少々夫食金御渡被下候得共、大勢
之儀ニ而中々まひりとゝき不申、当分ニ至而可仕様無御
座候間、及渇命候仕合ニ御座候間、御救米奉願候御事
一田畑之儀ハ夥敷亡所ニ罷成、家居ハ無御座難儀至極
仕候ニ付、村居外に引取不申候得ハ罷成不申候間、乍恐
早速御見分成被下、御入用御拝借被 仰付被下置侯様ニ
奉願候、家居外へ引取候而も御川除被 仰付不被下候得ハ、
相残候御田地猶又亡所ニ罷成候間、千曲河通南ハ大石川
より北中畑村境迄不残御河除奉願候、扨又西ハ八郡川
相残候御田地中を本瀬ニ罷成水通り申候間、是又御川除
奉願候御事
右申上候通前代承伝不申大満水ニ而、御田地ハ不及申、家居並
家財雑物不残押流当分可仕様無御座、一村亡所ニ罷成難儀 3
至極ニ奉存候、乍恐此度之儀 殿様(水野忠穀)御ちからニも御及被遊がたき
大破ニ御座候間、 御公儀様御見分之上御入用等被下置候共、
何れニも御慈悲ニ御了簡成被下、村相助り候様ニ奉願上侯、委細
之儀ハ別紙ニ相認村絵図指上申候、猶又御尋之上口上ニ可申上候、以上、
佐久郡上畑村
寛保弐年戌八月 名 主 孫 之 丞(印)
組 頭 太 四 郎判流
年 寄 半左衛門(印)
同 源五右衛門判流
同 八 三 郎(印)
同 源 七判流
同 三郎兵衛判流
同 六郎右衛門(印)
同 庄右衛門判流
高野町
御役所様