[現代訳]

   信州佐久浅間山が焼け、砂石が降ったこと
 
 七月四日ごろから、浅間山の雷のような噴火の音が次第に強くなった。六日夕方より七日朝にかけて青色の灰が大量に降った。噴火の音も強く、昼過ぎには重さ二〇匁(七五グラム)から四〇匁(一五〇グラム)ぐらいの軽石のようなものが降り、歩くことができなかった。午後四時ごろ降り出し、闇夜のようになり、人の顔も分からなくなった。家の中では灯りをつけ、外では提灯を持ち、米俵を四、五枚重ねてかぶって、行かなくてならないところへ行き来した。四時間ぐらいで空は晴れた。すると、再び浅間山の上空に火の玉が上がり、しばらく後には小石がおびただしく降ってきた。噴火の音はますます強くなり、震動で戸・障子がはずれ、夜寝ることができなかった。
 火の玉が空へ上がったためか、雷電(かみなりといなずま)が強く鳴り、上州安中の板倉伊勢守領分(三万石)へ四度も雷が落ちたという。人々は、それを恐れ、空に向けて鉄砲を打った。あるいは鐘・太鼓をたたいて雷よけにした。
 七日の夜中は右のとおりで、翌八日午前一〇時ごろまで闇夜のようだった。一〇時過ぎに少々晴れ、往来が見えた。上州藤岡辺りで、灰が八、九寸(約二四~二九センチ)積もった。松平右京守(右京亮)八万石の城下町高崎では、一尺四、五寸ぐらい、富岡も同じぐらい積もった。吉井で一坪に積もった灰を計ってみたところ、二斗(約三六リットル)あった。おしなべて右のとおりだった。その辺りより浅間山に近くなるほど、石・砂が夥しく降り、松井田で三尺(約九〇センチ)積もった。追分辺りのことは、人の行き来がなく分からない。軽井沢・沓掛辺りは、二抱えほどの大きな石が降り、家をつぶしたので、人々は家を捨てて思い思いに、遠くへ逃げた。
 
一、七月七日午後四時ごろ、吾妻山辺りから蛇が出たという。利根川の上流は二時間ほど水がなかった。しばらくして泥水が山のように押し掛け、前橋藩松平大和守の上州杢関所(杢ケ橋関所)を打ちつぶしてしまった。杢ケ橋関所がどこへ流れて行ったかは分からない。中瀬村の八丁河岸へ死体がおびただしく流れてきた。もっとも、死体の手足はみな別々になっていて、目もあてられないありさまだった。川々へは浅間山の焼け石が流れ込み、川水が湯のようになっていた。上州一国の人々は、二、三日は途方にくれていた。
一、東信州、上州一国、武蔵国熊谷辺りまでは、どこも二、三年は作物が実らない状態であった。藤岡(の土地)は、四、五年は役に立たないであろう。作物は皆無で、降った砂の捨て場所がなかったという。浅間山に近い所では谷が山になり、田畑も民家もわからなくなった。
 
 沓掛宿はじめ、信州の木曽街道(軽井沢宿は除いて)では、鳴り音が強いだけで、被害はそれほどなかった。追分宿へ西風が強く吹きかけた。沓掛宿では猪・狼が多く出て、人馬が怪我をしたので、近辺の人々が鉄砲で大半を撃ち止めた。
 
一、関東で一番大きな川である利根川は、川幅が二里(約八キロ)あるが、真っ赤になり、鯉・鮒が死んで流れてきた。その量は舟に積みきれないほどで、そのころ利根川には生魚はいっさいいなかった。江戸表では、そのころから灰が降り、心配していたところ、七日の夜二時ごろから震動し、翌朝は日帯食のようで暗く、一日中曇っていた。灰が降って、江戸中の屋根が真っ白になり、灰が少々積もった。灰は、その後も少々降った。右は、飛脚屋の嶋屋佐右衛門方から知らせてきたが、今日、代官遠藤兵右衛門からも同様のことが幕府へ報告された。
   天明三癸卯年七月十一日
 
 原田清右衛門代官所       南牧村
 高一六四〇余          小牧村(北牧村カ)
 
    男一二七〇人       川辺村(場所不明。川嶋村とする史料もある)
    女一一二一人       同
    家数三六〇軒       同
    牛馬一七五疋       同
 
 右の村々の近所に上州吾妻山(吾嬬山カ)という山がある。先月中旬より浅間山が噴火し、砂が降ったところ、今月八日に吾妻山大崩れして、いちどに大石を押し出し、右の三か村の民家をことごとくつぶし、人馬ともに利根川へ押し流した。翌九日、利根川・江戸川へそれらが流れてきた様子は、大きな立木が根付きのままであったり、家の諸道具・建具などがみな砕けていたり、溺死人・馬が流れてきたりといったありさまで、前代未聞だったと、大川(隅田川を大川と呼ぶことがあるが、この場合は大きな川の意味と思われる。別書には、「川通り」とある)沿いの人々から報告があった。
 
 このころ、日照りが続いていたが、八日・九日には利根川の泥水の水位が、三、四尺(約九〇~一二〇センチ)高くなった。右の流失のためであろうか。鯉・鮒・どじょう・うなぎが残らず死んで流れた。
 
一、上州吾妻郡鎌原村
    家数四一四軒
    人別一二六三人
     内 老人二人     子供一人
       老母一人     若者二六人
     生き残ったのは、これだけだった。
 
一、西久保村は名主次郎右衛門で、家数九二軒であるが、三六八人が残らず死んだ。
一、中村は名主団蔵で、家数六九軒であるが、七二九人が残らず死んだ。
一、羽根尾村は名主兵助・吉左衛門で、家数一七〇軒であるが、四六八人が残らず死んだ。
一、矢倉村・岩戸村(川戸村カ)・塚原村(郷原村カ)
 この三か村は、大津波に襲われた。大津波の深さ(高さ)三三丈八尺ほど(約一〇一・四メートル)、長さ二里四町(約八・四キロメートル)、横(幅)一八町ほど(約一九四四メートル~)で、一里三四間(約四〇六一・二メートル)四方におよんだ。
一、横尾村(横谷村カ)・松尾村 この二か村は沼のようになり、しかも水は湯のようだった。
 この二か村と一つ前の三か村合わせて五か村は、一人・一疋もいなくなり、訴える者もなかった。もっとも、この五か村は川岸にあった。
 隣村に坪井村という村があったが、百姓助右衛門という者の土蔵一つを残して、ほかはすべて流失した。
一、長野村(長野原村カ)・小屋戸村(小宿村カ)・横壁村 この三か村と一つ前の二か村合わせて五か村は両方の川岸にある。
一、川平村(場所不明。川原湯村カ)・草津村 この二か村は湯治場である。この二か村は流されないで残った。六軒と小屋一八軒がある所である。この二か村も川岸にあるが、相当高い所に位置している。
一、三嶋村は名主清兵衛で、高一一〇〇石である。
  徳台村(場所不明)は高五百石である。 押し砂が五七軒に流れこみ、馬八疋が死んだ。
一、川嶋村は家数一五三軒のうち六軒が残り、人馬は残らず死んだ。
一、小野木村(小野子村カ)・姥村(祖母嶋村カ)は、右と同じ(人馬残らず死んだ)。
一、杢橋両番所 砂が入って建物を押しつぶした。
右の分が流失した。流失した牛馬の数は多くてわからない。
右のとおり相違なく、写した。
  天明三癸卯年七月二七日に書き抜いておいた。最首氏