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追分宿へは3里半、牧野侯の居城です。(乙女が城ともいいます)城下の町は、25、6丁ほどが、がにぎやかな町通りです。小道が多く、千余りの家があります。ここから18丁脇に諸村があり、小諸の名称はこの村から出たといわれます。〔小室とも書きます〕大井庄長倉の里といいます。
このあたりは、浅間山(注1)のふもとをめぐる街道で、上田のあたりからしだいにつま先上がりとなります。右の裏通りは、千曲川の急流になっています。牛頭(ごず)天王(てんのう)は宮町中の左側にあり、例祭は6月13日から15日までで、神主は小林市正です。
例年、6月13日は牛頭天王の神輿が出、5、60人でかついで城中に入り、そのあと町々を走り回り、本町に御旅所(おたびしょ)を構えて置きます。14日は、踊子たちの衣装揃といい、町の長役の前を踊りまわります。15日は、御館で踊子の舞う日です。15歳に満たない児童が麗しい衣装をまとい、髪は大髷(おおまげ)に結い、月代(さかやき)は青く、顔は赤白く整えます。脇指は、背丈よりも長いものを畏れずに横たえます。女の子は装いたて、多くの人が町々から出そろいます。
小諸城下から布引観音(注2)まで1里あまりです。千曲川の橋を渡り、大久保村・氷村を過ぎ、坂道が険しく、往来する人は稀です。たまたま出会った杣人に道を尋ねることができ、布引山に着きました。ここは、佐久郡滋野庄御牧の郷です。小諸から1里10丁ですが、山深い所です。
布引から小諸に帰って北国脇往還を行きます。城下を出る欄干橋に石標があり、石標には浅間別当真楽寺(注3)道と書かれています。また、唐松という松原八丁を過ぎると、亀沢という小川の端に3軒の家があります。大雨が降るとこの川に亀石が流れてきます。その形は背中と腹に筋があり、本物の石亀のように黒く、人が採取したのを見ました。(3丁ほどの坂を登ると道が平らになります。追分までの道は上りがちです)
四ツ屋・平原・馬瀬口・三ツ屋などの村々が4、5丁づつ相対していて、休息所があります。三ツ屋村に石標があり〔浅間別当真楽寺へ25丁、星の宮へ10丁、小諸へ通り抜け〕と記されています。
その先に濁川があり、四季を通して赤濁色です。浅間山の渓流はいくつも流れ出ていますが、この川だけが赤濁色です。水源の山気はどのようになっているのでしょう。その先に小川があります。
領分境の傍示杭が2本建ち、追分宿の入り口に石標があります。関東から来て中山道と北陸道が分れるところの手引石です。また、石像の仏が多く、小諸あたりから軽井沢宿までは浅間山のふもとを通ります。ここは、日本一高い地の往還だといいます。駿州の芙蓉峯と追分宿の人家の軒とは同じ高さだといわれています。このあたりでは畑のかたわらに石が多く積まれています。浅間の焼石(注4)といって、黒くて軽い石です。
天明3年、浅間山の大焼け
天明3年4月9日より噴火しはじめ、日々止むことがありませんでした。5月26日大噴火、6月29日、7月1、2日、この3カ日、昼夜大噴火。7月6、7、8日の3日間はたいへんな大噴火でした。(8日は午前中だけでしたが)
北上州吾妻郡では、浅間山中腹の石だまりという所まで先年3度押し出しましたが、そこで留まっていました。そこより下へは押し出さないと思いましたので、石や砂が降ることだけを用心して岩穴などを造っておきました。7月8日、山が振動し魔風のように神社仏堂を崩しました。11時ごろ、木曽御嶽、戸隠の方から光物が来たように見えると、浅間峯の北東の間から山が鳴り崩れ、沼が湧き出し大石や大木を押し出しました。これが、鎌原村から羽尾村へ出て吾妻川へ押し込み、川沿いの村々を押し崩しました。
1番の水先は、黒鬼のように見える物が大地を動かし、人家をはじめ森林そのほか数百年の老木を押し倒し、土砂を巻き上げ、火煙を立て振動、雷電しました。
2番手の泥火石は百丈あまりも高く打ちあげ、青竜が乱れたごとくです。一時に闇夜となり、火石の光は天を貫くようで、吾妻川や利根川沿いの村々は水が出、武州熊谷の中瀬村あたりまで押し出し、田畑や村は一面の泥海になりました。老若男女の流死は前代未聞のこととなりました。
村々の畑の泥の深さは5尺から6尺、あるいは1丈にもなり、その中に火石があり、燃え上がります。利根川筋は砂が押埋まり、3日間流れが止められました。そのため47、8ケ村がなくなりました。吾妻川沿いの村々の流死人の魂が夜ごと水辺で泣く声がし、止むことがないので、所々の寺院で水施餓鬼や堂塔供養追善をしました。
7月1日と2日は噴火が激しく、軽井沢・碓氷峠・坂本宿・松井田・安中・板鼻・高崎、武州児玉郡・榛沢郡30里の間は灰砂が2尺3寸、場所によっては5、6尺も降り、人馬の通路も絶えました。7月4日夜8時ごろに再び噴火し、火石は50丈もの高さに昇り、煙の先は手まりのように見え、砂や石が雨のように降りました。5日夜3時ごろ、浅間山から黒雲が生じ、その中で1丈ばかりの光物がくるくると回り稲妻のようでした。人々は天魔の仕業だとし、鉄砲を撃つと吾妻岳のあたりが薄くなり、北国の方へ散り渡りました。4日5日の両日は昼間でも夜のようでした。上州碓氷郡、武州児玉郡・榛沢郡では昼間なのに行燈をともし、道ゆく人は提灯で道を照らして歩きました。
5日朝、関八州・信濃・加賀・能登・越中・越前・出羽・奥州まで白い毛が降り、3、4寸あるいは1尺あまりもあるように見えました。1尺5、6寸の石に火が付き燃えながら飛んできて落ちては砕けるので、坂本宿の商家50軒余りが焼失、つぶれた家80軒あまりの老若男女は皆、南の方へ逃げました。20日ごろから徐々に帰ってきましたが、青々していた山林の草木は1本もなく、野菜までもが採れなくなりました。
浅間山のふもとに住んでいた猪・鹿・狼などは、山野に餌がないので、宿内の焼け跡に出ます。そのため、日が暮れてからは外出もできず、ことに近所に水がなく火の元は危なくなりました。
このたびは、北へ3里11丁のあいだ、石土が押し出し、山となりました。中で一番の大石は95間、これに準じた石はたくさんあります。
7月11日夜は大雨で、大水が出て山や沢に積った砂石を押し流し、道に架かる2つの橋が流失、宿も危うくなりました。水湧が切れた音で山河は動揺しました。
この大災害で損害を受けた村々は32、3ケ村、流された家1200軒におよび、溺死の人はおよそ1400人ほど、馬は500匹あまりでした。
わたしはこの話を聞いて、胸がつぶれる思いでした。天は生育をつかさどるといいます。中庸にも「君子於禽獣也、見其生不忍見其死、聞其声不忍食其肉」とあります。これは天変で、世にもまれなできごとです。すべては大山祇があばれたためです。
宝永年間の富士山の大噴火では、砂石を吹き出し、一つのこぶを成しました。これを俗に、宝永山というようになりました。その後は煙も立ちません。
浅間山は大噴火のあと、今に至るまで煙が立ち昇り、雨の降るような天候のときは煙が多いと聞きます。
碓氷峠
上州碓氷郡にかかわるので、この名がついています。
熊野権現の宮があります。若宮の社は、祭神日本武尊が当山の主だと称しています。例祭は6月15日、前夜に紀州の熊野から、なぎの葉が降り、白い頭の鳥が来て、社内の樹木に宿することは、むかしから変わりません。また、当山の熊笹の葉が紀州へ降ります。当山の由来はわからず、社領はなく、むかしから諸役が免除されている社格で、守護は入れない神の域です。
この嶺は信州と上州の境(注5)になっていて、拝殿の屋根の片方は信州、片方は上州が修理することになっています。国分の神社と自称するのも、このためでしょう。
神人は45人、(22軒は信州方、23軒は上州方)各家系の祖先はわかりません。古記録もありません。古く尊く、神代から連綿とこの高岳で神に仕え、神代の風習を失わず、神の住むところとでもいいましょうか。
大昔、日本武尊が東征したとき、碓氷の嶺から南東を眺めて、橘姫を慕い、三たび歎いて、吾嬬(あづま)はや吾嬬はや、といってから、東の方を吾嬬というようになったと日本書紀には記されています。この嶺から東を眺めると、武蔵・下総・常陸・上野の山々、筑波山・日光山などが特に高く見えます。
この山中には鹿が多く、秋にはその声が哀しく、たまたま白鹿が見えると、雪のようだといいます。また、この峠(注6)はとても寒く、五穀は実らず、野菜も育たないといいます。この上ない寒さなのです。
(注1)現在も活発な火山活動を続けている浅間山は、今から約9万年前から噴火を開始したと推定され、その噴火回数は数えきれません。人々の生活を脅かした大噴火の記録としては、天仁元(1108)年と天明3(1783)年などの火山活動が挙げられます。特に、天明3年の大噴火については、現在も研究が進み、論文や著書が出版され、災害対策を考える資料ともなっています。
(注2)小諸市大久保。御牧ヶ原北端の断崖にあります。頂上からは千曲川、浅間山、小県郡、佐久郡が一望できます。境内の岩壁に見える白布状の縞模様から「牛にひかれて善光寺まいり」の伝説が生まれました。
無信心の老婆が、干しておいた白布を牛に持ち去られました。老婆はこれを追いかけ善光寺へ到達、はからずも善光寺まいりをすることとなりました。帰ってくると、白布は布引山にかかっていました。
(注3)山号は浅間山、本尊は普賢菩薩、浅間山守護の祈願所です。
(注4)天明3年の大噴火では、この地にもおびただしい噴石などが降り、焼石に覆われたといいます。
(注5)現在も熊野神社の中央が長野県と群馬県の境です。
(注6)峠の近くを国道18号と上信越自動車道(高速道路)が通っています。