天正十一年(一五八三)一月には、小県郡南部依田窪地方(千曲川の支流依田川流域)の諸士がこぞって徳川に、直接的には真田に反を翻した。そのため閏一月に昌幸はこれらと戦闘を交えている(4)。これに対する措置として家康は、三月には「佐久小県の逆心」の徒の討伐のためとして、昌幸に近く出する旨を伝えるとともに、南信濃伊那郡の諸士へ出陣を命じ、四月には甲府へ出張している。また、この三月には上杉方の海津城将屋代秀正が家康に内通し、家康より更級郡の宛行(あてが)いを約束されている。屋代のこの動きもあわせてみると、家康の出陣は、上杉方の北信濃南部更埴地方の奪取も念頭に入れてのことであったと思われる。これと連動してか、やはりその三月に昌幸は上杉方の最前線虚空蔵山(こくぞうさん)(小県郡・現上田市と埴科郡坂城町との境)へ攻撃を仕掛けている。

 このような状況下で天正十一年四月、上田築城普請が開始されたのだった。これについて従来は「真田昌幸が築城」と当然のように言われてきた。しかし、この築城普請は、直接には徳川家康の命令で、徳川勢により始められたものだった。家康はこの前後、佐久小県の自分に従わない勢力討伐を名目に、真田昌幸の救援要請に応ずる形で甲府まで出して前線への指令を発していた。その中で昌幸の進言により、上杉勢力に対する徳川方の最前線の重用拠点としての上田築城に取りかかったのだった。このとき家康が出陣を命じたとみてよい下伊那の下条氏に対して城普請の苦労をねぎらうとともに、早期の完成を督励する家康書状が二通伝わっている。下条氏は家康配下の当時の伊那の最有力の士でもあったが、その状況からして、この普請とは間違いなく上田築城普請のこととみられるのである。

 また、その築城開始の報に接した上杉景勝は早速それに対する妨害を北信濃の配下の将士に命じている。その命を受けて上杉勢は集結しているのだが、実際の妨害活動を行なった形跡はない。これは上田城普請が真田独自のものではなく、家康の命による徳川軍総体の動きと認識したためとみられる。前線では既に戦闘も行われていたのだが、上杉・徳川間は、まだ正面切っての敵対関係にはなっておらず、実際に攻めかかるのは憚ったものとみられる。いずれにせよ上田築城は、単なる真田氏の居城普請というものではなかった。徳川方の重要拠点、それも上杉勢力圏の北信濃に対峙する最前線の重要基地となるはずの城普請として始められたのであった。

 上田城から上杉方の最前線の虚空蔵山までの距離は、わずか数㎞しかない。事実上杉方は、その虚空蔵山へ北信濃四郡の総勢を集結させての、築城の妨害を指示していたわけであり、まさに敵前工事であった。この時点での真田氏独力での築城は、到底無理でもあった。この上田城の地は上田盆地のほぼ中央に位置しており、小県郡全域を支配するには絶好の地点でもあった。真田昌幸は当時の情勢を、そして家康の力を最大限に利用して、実質的な居城普請を始めたということになる。領民を酷使してではなく、大勢力をたくみに利用しての城普請であり、これも真田の智謀の一つとも言えよう。

宮下善七郎宛真田昌幸感状
宮下善七郎真田昌幸感状

<史料解説>

宮下善七郎真田昌幸感状   関口清造氏蔵 上田市立博物館保管

  天正十一年(一五八三)閏正月二十九日

 この年正月(一月)「武石・丸子・和田・大門・内村・長窪」など、つまり小県郡のうち千曲川の南、依田川流域(依田窪)全域の諸士がこぞって、反徳川・反真田の兵をあげた。昌幸は翌閏正月、これらを攻め丸子で合戦が行われた。このとき、家臣の宮下善七郎が敵の頸(首)を一つ討ち取るという手柄をあげた。その戦功を賞して昌幸が与えたもの。全紙を横に半切した切(きり)紙に記されている。同日付、ほぼ同文言の感状が五通伝わる。昌幸がこのような首取りに対する感状を出したのは、この時だけであったらしく他に同様のものは見当らない。また、このおり昌幸家康に救援を要請している。家康もそれをうけて四月には甲府まで出張しているが、そこへ昌幸が出向いて上田築城を相談したらしい。なお、原文は写真のとおり「正月」だけで「閏」がついていないが、これは三島暦を使っていたため。京暦では「閏正月」であった。

<訓読>

  今度丸子に向って行(てだて)に及び候処、河南の者共出で備へ候処に防戦を遂げ、頸(くび)壱ツこれを討たれ候条、戦功比類無く候。向後弥(いよいよ)相稼ぐべき事肝要に候者也。仍って件の如し。
  天正十一年癸未 正月廿九日 昌幸(花押)
     宮下善七郎殿