この報告に憤激した秀吉は、重大な裁定違犯だとして、北条氏征伐を決断する。昌幸宛て十一月二十一日付け書状で、北条の態度には大変問題があったが不問に付し、使者を派遣して要求どおり沼田城を渡してやった、にもかかわらず、このような次第では、例え北条が自分の下へ出仕しても、その名胡桃へ攻めかかった者共を成敗しないことには、許すことはできない、とするとともに、北条が裁定違犯をしたからには、「本知」つまり元々の領地沼田昌幸に与える旨を述べている(写真)。そして、その三日後の十一月二十四日には北条氏直に宛てて、その非を書き連ね、関白太政大臣の任にあり国政を一身に預る者として、北条を是非とも誅伐しないわけにはいかない旨を通告している(写真)。北条氏の当主氏直は家康の娘婿でもあった。徳川の最大の同盟者北条を倒すことは、家康の力を殺ぐことにもつながり、秀吉としてはまさに一石二鳥だったとも言える。その大義名分を真田が提供した形となったわけである。

真田昌幸宛豊臣秀吉書状
真田昌幸豊臣秀吉書状

<史料解説>

真田昌幸豊臣秀吉書状   真田宝物館蔵

  天正十七年(一五八九)十一月二十一日

 名胡桃事件の報告を受けた秀吉が、まず被害者でもある真田昌幸に出した書状。自分の裁定が破られたことに憤慨し、名胡桃を攻めたものを成敗しないことには、北条を許すことはできない、などとしている。

<訓読>

  其の方相抱ふるなくるミの城へ、今度北条境目の者共手遣せしめ、物(もの)主(ぬし)討ち果たし、彼の用害北条方へ法(のっと)るの旨に候。此の比(ごろ)氏政出仕致すべき由、最前御請け申すに依り、縦(たと)へ表裏有りと雖(いえど)も、其の段相構へられず、先ず御上使を差し越され、沼田城の渡し遣はし、其の外知行方以下相究めらるるの処、右動(はたら)き是非無き次第に候。此の上北条出仕申すに於いても、彼のなくるミヘ取り懸り討ち果たし候者共、成敗せしめざるに於いては、北条赦免の儀これ在るべからず候。其の意を得、境目諸城共来春迄人数入れ置き、堅固に申し付くべく候。自然其の面(おもて)人数入り候はば、小笠原・河中島へも申し遣はし候。注進候て彼の徒党等を召し寄せ懸け留め置くべく候。誠に天下に対し抜公事表裏仕り、重々相届かざる動きこれ在るに於いては、何れの所成り共、堺目の者共一騎懸けに仰せ付けられ、自身御を出され、悪逆人等首を刎ねさせらるべき儀、案の中に思し召され候間、心易く存知すべく候。右の堺目又は家中の者共に此の書中相見せ、競べを成すべく候。北条一札の旨相違に於いては、其の方儀、本知の事は申すに及ばず、新知等仰せ付けらるべく候。委曲浅野弾正少弼・石田治部少輔申すべく候也。
   十一月二十一日 (朱印)(豊臣秀吉
     真田安房守とのへ

北条氏直宛豊臣秀吉条目
北条氏直豊臣秀吉条目

<史料解説>

北条氏直豊臣秀吉条目   真田宝物館蔵

  天正十七年(一五八九)十一月二十四日

 右の昌幸書状のわずか三日後のものだが、これは北条氏に対しての明白な宣戦布告状となっている。氏直に通告したのと同文のものを昌幸にも送ってよこしたわけである。長文で沼田領をめぐる経緯が詳しく記されている。また、最後の項では、北条氏を誅伐せずにはおけない理由を述べるのに、秀吉自身の越し方から一代記風に記してており興味深い。

<訓読>

  条々
一北条事、近年公儀を蔑(ないがしろ)にし上洛する能はず、殊に関東に於いて雅意に任せ狼藉(ろうぜき)の条、是非に及ばず。然る間、去年御誅罰を加へらるべき処に、駿河大納言(徳川)家康卿、縁者たるに依り、種々懇望候間、条数を以って仰せ出され候ヘバ、御請け申すに付いて御赦免成され、則ち美濃守(北条氏規)罷り上り御礼申し上げ候事。
一先年家康相定めらるる条数、家康表裏の様に申し上げ候間、美濃守御対面成さるる上は、境目等の儀聞こし召し届けられ、有り様に仰せ付けらるべきの間、家の郎従差し越し候へと仰せ出され候処に、江雪(板部岡江雪斎)差し上り畢(おわ)んぬ。家康と北条国切りの約諾儀如何と御尋ね候処、其の意趣は、甲斐・信濃の中城々ハ家康手柄次第申し付けらるべし、上野の中ハ北条申し付けらるべきの由相定め、甲・信両国ハ則ち家康申し付けられ候。上野沼田の儀は、北条自力に及ばず、却(かえ)って家康相違の様に申し成し、事を左右に寄せ、北条出仕迷惑の旨申し上げ候歟(か)と思し食(め)され、其の儀に於いては沼田下さるべく候。去り乍(なが)ら上野(こうずけ)のうち真田持ち来たり候知行三分の二沼田城に相付け、北条に下さるべく候。三分の一ハ真田に仰せ付けられ候条、其の中にこれ在る城をバ真田相拘(かか)ふべきの由仰せ定められ、右の北条に下され候三分の二の替地は、家康より真田に相渡すべき旨御究め成され、北条出仕すべしとの一札出し候はば、則ち御上使を差し遣はされ、沼田相渡さるべしと仰せ出され、江雪返し下され候事。
一当年極月上旬、氏政(北条)出仕致すべき旨、御請け一札進上候。茲(ここ)に因り津田隼人正・富田左近将監を差し遣はされ、沼田渡し下され候事。
沼田要害請け取り候上ハ、右の一札ニ相任せ、則ち罷り上るべしと思し召され候処、真田相拘へ候なくるみの城を取り、表裏仕り候上は、使者に御対面成さるべき儀にあらず候。彼の使生害(しょうがい)に及ぶべしと雖(いえど)も、助命し返し遣はし候事。
一秀吉若輩の時、孤(みなしご)と成りて信長公幕下に属し、身を山野に捨て、骨を海岸に砕き、干戈を枕として夜ハに寝ね、夙(つと)におきて軍忠をつくし、戦功をはげます。然して中比(ごろ)より君恩を蒙り人に名を知らる。これに依り西国征伐の儀仰せ付けられ、大敵に対し雌雄を争ふの刻(きざみ)、明智日向守光秀、無道の故を以って信長公を討ち奉る。此の注進を聞届け、弥(いよいよ)彼の表へ押し詰め、存分に任せ、時日を移さず上洛せしめ、逆徒光秀の頸を伐り、恩恵に報じ会稽を雪(すす)ぐ。其の後柴田修理亮勝家、信長公の厚恩を忘れ国家を乱し叛逆の条、是又退治せしめ畢(おわ)んぬ。此の外諸国叛(そむ)く者これを討ち、降(くだ)る者これを近づけ、麾(き)下(か)に属さざる者無し。中ん就く秀吉一言の表裏これ有るべからず。此の故を以って天命に相叶ふ者哉。予既に登龍揚鷹の誉れを挙げ、塩梅則闕の臣と成り、万機の政を開く。然る処に氏直天道の正理に背き、帝都に対し奸謀す。何ぞ天罰を蒙らざらん哉。古諺(げん)に云はく、巧訴(詐)は拙誠に如かずと。所詮普天の下、勅命に逆らふ輩、早く誅伐を加へざるべからず。来歳必ず節旄(せっぽう)を携へ進発せしめ、氏直首を刎ぬべき事、踵(きびす)を廻らすべからざる者也。
   天正十七年十一月二十四日(朱印)(豊臣秀吉
     北条左京大夫とのへ