関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇)までの真田昌幸の知行高、つまり上田領の石高は「三万八千石」とされていた。しかし、この上田領つまり信濃国小県郡一円の石高は江戸時代初期以降は約六万五千石とされている。同じく慶長五年までの信幸の沼田二万七千石(上州利根郡・吾妻郡)は、江戸前期ごろ三万石であった。
真田領それも特に昌幸領は、豊臣氏よりの言わば拝領高がかなり低い数字になっていた。そのため軍役量、具体的には朝鮮の役、伏見城普請等への動員の負担が軽くてすんだとも言える。これは信幸(信之)が相続したときに、加増という形で実際の石高とも言うべき合計九万五千石に直されている。いずれにしても真田領は十万石足らずではある。しかし、その領域は上田・沼田間だけでも約百Kmという広大さであった。面積だけで見ると国持ち大名級である。支配の拠点が上田盆地の上田城と沼田盆地の沼田城というように二つに分かれるのは、地理的にみても自然であった。
<史料解説>
真田信之(信幸)が城主だった時代の上田城・城下町の様子を伝える図。左手の「古城本丸」など上田城の中心部は、関ヶ原合戦後破却され、「畠(はたけ)」となり、堀も「ウメホリ(埋め堀)」となっていた。そのため下方中央の濠で囲まれた屋敷に信之は住んだ。ここは、その後も江戸時代を通じて藩主邸・藩庁として使われることになる(現上田高校)。その左上も藩主関係の屋敷(現清明小学校)。