[解説]

『説諭要略』巻一
長野市公文書館 西沢安彦

筑摩県権令永山盛輝と『説諭要略』
 
 明治四年(一八七一)十一月二十日、筑摩県が設置され、長官には元伊那県大参事永山盛輝が任命された(六年三月権令に昇任)。本城内の筑摩県庁が開庁したのは五年一月十三日のことであった。永山盛輝は鹿児島藩士族で戊辰戦争に従軍し、明治維新後は宮内省に出仕し官員となった。大久保利通に連なる官僚の一人である。
 維新政府は明治五年八月、「学制」を発布して近代的な小学校設立に着手するが、筑摩県ではそれに先立つ同年二月二十日に「学校創立告諭書」を管内に布達した。「国家ノ富強ヲ謀ルハ人民ノ智」を磨くことにあり、「管内各処ニ学校ヲ創立シ、臣民一致勉強ノヲ尽シ、他ニ率先シテ報国ノ実ヲ顕サシメント、宜シク有志ノ者ハヲ積ミ財ヲ出シ早ク学校ヲシテ盛大ニ到ラシメンコトヲ偏ニ期望スル所ナリ」としている。
 告諭書と同時に「学校入費金差出方取計振」を出し、学校元資金を募集した。学校の設置・維持は官費によらず住民有志の資金による、とした政府の方針に基づき資金を募集したのである。本人が申し出た金額は差し出さず、毎年利息だけを学校経費として拠出する、という仕組みであった。
 明治五年五月五日、筑摩県学校が開校、七月までに安曇・筑摩郡に一〇校の小校が設立された。「学制」に基づいて設立される以前の郷学校であった。筑摩県は六年三月、県下を八二八の小学区に区画し原則として一小学区に一校を設立することとした。小学区には学校世話係を置き教育事務を担当させた。四月から「学制」による小学校設立に本格的に着手し、六年六月三十日までに学校設置を完了する計画であった。
 学校の経費は学校元資金・生徒授業料・小学扶助委託金(国庫補助)で賄われ、学校元資金をどれだけ集めることができるかが、学校の設立・維持にとって重要で、県の督励もそこにが注がれた。明治六年度約一八万円であった学校元資金は、八年には一〇〇万円を越えている。学校の設立も急速に進み、七年には五八四校を数えるまでとなり、全国的にみて就学率は高かった。
 筑摩県の学務担当の官員は、明治六年五月~九年八月(筑摩県廃止)の間、十数回にわたり管内を視察巡回し、学校元資金加入・学校創立などを説諭しし、学事進捗状況などを検査したのである。永山権令は七年三月二十二日から六〇日間の日程で諏訪・伊那郡、八年八月三十一日から十一月にかけて安曇・筑摩郡、飛騨三郡を説諭して回っている。
 諏訪・伊那郡下二三〇校の説諭巡回には、高遠藩出身で学務掛の長尾無墨、師範講習所教員飯田正宣、同予科生徒四人がつきしたがった。この巡回長尾無墨が記録し、これを県が翻刻して『説諭要略 巻之一』として管下に頒布したのは、七年七月二十九日のことであった。
 『説諭要略』は全五〇回で構成されている。内容は大よそ、(1)権令が説諭した要旨について(一~一〇回)、(2)大体の巡回の行程にしたがって、県民の対応、学校元資金の募集にまつわる美談、学事の進捗状況などについて(一一~四七回)、(3)巡回のまとめ(四八~五〇回)、となる。
(1)では、①「学制」の目的は「村ニ無学ノ家ナク家ニ無学ノ人ナク」することであるとし、「学校ハ天下富強ノ基」で「西洋各国ノ富」は学校が盛んであるからである、②費用の無駄を省き学資を充実させるため、郵便制度の利用、乞食・物貰いの禁止、僧侶の托鉢、修験の勧化を停止する、③村々が豊になるため勧業社の設立や養の奨励が必要である、などと述べている。
(2)では、①村々の戸長・指導的人物学資金拠出の尽、②頑迷・固陋の者が権令の説諭や生徒教育の成果に目覚めて自発的に出金に応じる事例、③村落あげて権令の説諭に応じて学校設立にすすんだ事例、などが列挙されている。事例では、女性が雨に濡れた生徒のために雨傘を用意する、老女が裁縫・洗濯などで蓄えた金銭を献金する、学校に才女が出現している、など女性が度々登場する。就学向上をねらった意図的な叙述ではあるが、維新後の新しい時代の到来を示してもいるといえよう。
(3)では、巡回説諭の成果として、学事が盛んになり学校元資金も三一万円余となったことにふれ、「説諭ノ及フトコロ、管下人民ノ憤起亦大ナラスヤ」と結んでいる。権令永山の巧みな説諭の結果でもあった。
 永山盛輝は明治八年十一月、新潟県令に転出する。出立の時の様子を『信飛新聞』は「師範校や開智学校・女学校・南北深志学校の教員や幼少生徒衆まで陸続跡を慕ふて御見送りにでかけました。これも御在県中学事にハ格別の御引立ありし御恩の溢るゝ所でござりましやう」と報じている。