總持寺の歴史
-所蔵史資料からみる-
總持寺は、瑩山紹瑾禅師によって鎌倉時代に能登(石川県)に開創され、その後明治31年の大火を機に、鶴見(神奈川県横浜市)の地に移転しました。
總持寺所有の文化財は、移転に伴い鶴見に移された文化財と、能登に復興された總持寺祖院に所蔵される物があります。またそうした伝来の文化財に加え、明治末年以後、新たに参じた檀信徒、後援者から寄進された近代蒐集の文化財もあります。
總持寺所蔵文化財としては国指定重要文化財、横浜市指定文化財に加え、国指定有形文化財(建造物)、その他にも多くの文化財や史資料が伝わっています。また近代蒐集の文化財は、禅宗の範囲にとどまらない各種の仏像仏具類、東アジア各地の品々、現代美術まで多岐に及びます。
そうした美術品などの主な寄進者である村井吉兵衛、京都道正庵、皇室関連品を寄進された久邇宮家をはじめ、五島慶太、加山又造など財界や美術界など垣根を越えて様々な有名人も寄進者として挙げられます。その中でも特に村井吉兵衛寄進の文化財が多く伝わっており、總持寺の文化財に彩りを添えています。近代蒐集の文化財もまた鶴見に移転したことで新たに多くの檀信徒と関わりをもち、また世界と広くつながりはじめた維新・開花の時代を反映したものといえます。
ここでは、總持寺所蔵の文化財・史資料を仏教が開かれた時代から現代に至るまで、各時代別に分類する事で、仏教・禅宗・總持寺の歴史的発展と各時代の社会の在り方がみえてくるのではないでしょうか。。
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- 古代
仏教の始まりと禅の源流
仏教のはじまりは、インドにて釈迦牟尼如来(お釈迦様)が坐禅によって悟りを開かれたことからはじまります。その後、釈迦牟尼如来は様々な方に教えを説かれました。その教えは、後に経典としてまとめられ、様々な宗派や学派が生まれました。お釈迦さまから数えて二十八代目の達磨大師によってインドから中国に禅を伝えられました。禅は坐禅を重んじる教えです。中国に根付いた禅は、中国宋代(日本の鎌倉時代)に天童山景徳寺(現・浙江省)の如浄禅師のもとで日本から渡った道元禅師が修行して教えを伝えました。
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- 鎌倉(1185~)
- 室町•南北朝(1336~)
瑩山禅師と總持寺の開創
道元禅師から数えて4代目の弟子の瑩山紹瑾禅師(1264ー1325)は、曹洞宗の大本山である總持寺の開祖です。瑩山禅師は道元禅師の教えを継いだ永平寺2代懐奘禅師・3代義介禅師らに学び、曹洞宗の教えを広められました。その功績から現在の曹洞宗では、大本山永平寺を開き曹洞宗を開かれた道元禅師を高祖、大本山總持寺を開いて曹洞宗を広められた瑩山禅師を太祖としておまつりしています。
- 室町・南北朝(1336~)
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- 室町
峨山禅師と門派の発展
峨山韶碩は、元亨4年(1324)に瑩山禅師の後を継いで總持寺二世となり、以後約42年間住持をつとめられました。その間、總持寺を中心に伽藍の経営をはかるとともに、多くの優れた弟子を育成し、その門下達が代わる代わる總持寺の住職を継いでいくことを定めました。教えを継いだ弟子の順番は記録され、弟子たちはその順番を基本としながら、總持寺の住職を交代して維持していく仕組みが作られました。門下が名誉と負担を分け合いながら一致団結して總持寺を支える仕組みであり、これを輪番住持制度といいます。輪番住持制度は、總持寺門下の多くの主要な末寺にも取り入れられ、曹洞宗の全国的発展の基礎となっていきます。
- 室町
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- 江戸(1603~)
總持寺の発展と前田藩の外護
織田・豊臣政権下で大名となり、加賀を領した前田利家は、領内の總持寺を保護しました。利家の没後は正室(まつ)が芳春院と号して引き続き總持寺の外護者となりました。江戸幕府が成立すると、幕府は各宗派の寺院統制のために全国の本山格の寺院に法度を出しました。曹洞宗においては永平寺と總持寺の2か寺のみに法度が出され、これが大本山永平寺・大本山總持寺をいただく今日の曹洞宗のあり方につながっていきます。
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- 明治以降(1868~)
近代日本の発展と總持寺の移転
江戸時代が終わりを迎え、明治維新・文明開化の時代を迎えます。總持寺としても急激な時代の変化に対応していくためにも、ついに開創以来の輪住制を終え、選ばれた一人の住持が長期間、住持を勤める独住制に移行していきます。また度重なる火災に見舞われた總持寺は東京にほど近い鶴見の地への移転が検討されました。移転に関しては賛否両論さまざまな意見が出されましたが、移転は実行に移され、現在の鶴見の地から新たな歩みを進めていくことになりました。移転した總持寺には新たな檀信徒が加わり、檀信徒から寄進された多くの文化財が寺宝に加わります。
仏教の始まりと禅の源流
仏教のはじまりは、インドにて釈迦牟尼如来(お釈迦様)が坐禅によって悟りを開かれたことからはじまります。その後、釈迦牟尼如来は様々な方に教えを説かれました。その教えは、後に経典としてまとめられ、様々な宗派や学派が生まれました。お釈迦さまから数えて二十八代目の達磨大師によってインドから中国に禅を伝えられました。禅は坐禅を重んじる教えです。中国に根付いた禅は、中国宋代(日本の鎌倉時代)に天童山景徳寺(現・浙江省)の如浄禅師のもとで日本から渡った道元禅師が修行して教えを伝えました。
インド 西暦紀元前6世紀
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お釈迦さまがインドで仏教を開く
『釈迦三尊像』(室町時代) 紀元前6世紀に釈迦牟尼如来(釈尊・お釈迦さま)はインドに生まれ仏教を開かれました。本図は日本の室町時代(14世紀-16世紀)に、仏教の開祖お釈迦様を中心に、向かって右に騎獅文殊菩薩と左に騎象普賢菩薩を描かれたものです。絹本著色。縦92.5×横39.3cm。 -
お釈迦さまのもとに様々な人が集い仏教が広まる
重要文化財『提婆達多像』(朝鮮半島・高麗時代) 提婆達多はお釈迦さまのいとことも言われ、お釈迦さまに従って出家しますが、後にお釈迦さまと立場を異にして、たもとを分かったと伝えられています。仏典には様々な国の人々や様々な立場の人が仏教の教えに触れ、感化されながら、時に教団として集まり、時に分かれながら教えが広まっていく様子が描かれています。紙本著色。縦150.2×横91.6cm。 -
お釈迦さまがお亡くなりになり弟子が教えを受け継ぐ
横浜市指定文化財『十六羅漢像』(鎌倉時代) 十六羅漢とは紀元前6世紀に釈迦牟尼如来(お釈迦様)がお亡くなりになった際に後を託したという弟子たちです。本図は日本の鎌倉時代に描かれたものです(補作4幅は江戸時代のもの)。絹本着色(補作四幅は絹本墨画淡彩)。縦86.2×横43.2cmほか。
西暦紀元前4年頃
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イエス・キリストが誕生する
中国南北朝時代 西暦5-6世紀
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中国に達磨大師が禅の教えを伝える
『蘆葉達磨・墨梅図』(中国・元時代) 達磨大師(達磨さま)は禅宗の初祖です。本図の制作年代は1330年。達磨大師がインドから中国・梁に至る際、一枚の蘆の葉に乗って南海を渡ったという伝説を描いています。これに墨梅図二幅を配し三幅対として伝来しました。絹本墨画淡彩。〔達磨〕縦158.8×横77.5cm〔墨梅〕縦159×76.4cm。
古墳時代 6世紀半ば
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仏教公伝
鎌倉時代 建久3年(1192)
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源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府をひらく
鎌倉時代 正治2年(1200)
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道元禅師がお生まれになる
中国宋代 西暦13世紀
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道元禅師は宋に渡り、如浄禅師の下で修行され教えが相承される
横浜市指定文化財『天童如浄和尚録』(鎌倉時代) 天童如浄禅師とは中国南宋の曹洞宗の僧であり、日本曹洞宗の開祖道元禅師が渡海入宋した時の師です。本史料は天童如浄の語録で鎌倉時代に書写されたものです。紙本墨書。縦12.7×横10.2cm。
鎌倉時代 寛元3年(1245)
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道元禅師が大佛寺(後の永平寺)を建立される
鎌倉時代 建長5年(1253)
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道元禅師がお亡くなりになる 54歳でそのご生涯を閉じられた
瑩山禅師と總持寺の開創
道元禅師から数えて4代目の弟子の瑩山紹瑾禅師(1264ー1325)は、曹洞宗の大本山である總持寺の開祖です。瑩山禅師は道元禅師の教えを継いだ永平寺2代懐奘禅師・3代義介禅師らに学び、曹洞宗の教えを広められました。その功績から現在の曹洞宗では、大本山永平寺を開き曹洞宗を開かれた道元禅師を高祖、大本山總持寺を開いて曹洞宗を広められた瑩山禅師を太祖としておまつりしています。
鎌倉時代 文永元年(1264)
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瑩山禅師がお生まれになる
重要文化財『瑩山紹瑾像』(元応元年(1319)自賛) 瑩山紹瑾禅師は曹洞宗の四祖であり總持寺の開山です。他にも永光寺などのお寺を開き曹洞宗発展の礎を築かれたことから太祖さまと呼ばれています。本図は鎌倉時代の元応元年(1319)に描かれたものです。絹本著色。縦89.2×横38.6cm。
鎌倉時代 文永5年(1268)
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北条時宗(二度に亘る元の侵略を防いだ執権)鎌倉幕府 執権となる
鎌倉時代 建治2年(1276)
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瑩山禅師が永平寺で懐奘禅師をはじめ道元禅師の高弟に指導を受ける
鎌倉時代 永仁3年(1295)
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義介禅師の伝法を受け大乗寺最初の首座(修行僧のリーダー)となる
鎌倉時代 正安2年(1300)
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瑩山禅師が『伝光録』にて門下に教えを示す
『伝光録』(明和4年(1767)書写) 『伝光録』は瑩山禅師が加賀大乗寺にて修行僧のために説かれた話を侍者が記録したものです。お釈迦さまに始まり達磨大師、道元禅師そして懐奘禅師までの53人の略伝と悟道の因縁を中心に正伝の仏法の伝承が明示されています。紙本墨書。縦23.4×横16.5cm。
鎌倉時代 元享元年(1321)
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瑩山禅師に後に總持寺となる地が寄進される
『定賢寺領敷地寄進状』(元享元年(1321)) 元亨元年(1321)に諸岳寺観音堂院主の定賢権律師がその寺領や敷地を瑩山禅師に寄進したときの寄進状です。観音堂縁起とともに總持寺の成立の基礎を知る資料です。紙本墨書。縦29.5×横47.2cm。 -
瑩山禅師が總持寺の地となる観音堂の由来を記される
重要文化財『観音堂縁起 瑩山紹瑾筆』(元享元年(1321)) 瑩山禅師による總持寺開創の由来が書かれたものです。總持寺の前身である諸岳寺観音堂の縁起からはじまります。總持寺の草創に関する根本史料であるとともに、瑩山禅師の数少ない親筆として重要な史料です。紙本墨書。縦32.5×横252.3cm。
鎌倉時代 元亨4年(1324)
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瑩山禅師の後を継ぎ、峨山禅師、總持寺二世となる
『峨山韶碩像』(江戸時代) 峨山禅師は元亨4年(1324)に瑩山禅師の後を継いで總持寺2世となり、以後42年間住持を務め、總持寺を中心に伽藍の経営をはかるとともに多くの優れた弟子を育成し、全国的発展の基礎を確立しました。紙本著色。縦51.4×横31cm。 -
瑩山禅師が『瑩山清規』にて儀礼作法をお示しになる
『瑩山清規』(江戸時代) 『瑩山清規』は瑩山禅師が永光寺にて住職を務めていた際の行事記録で、後に曹洞宗の清規となりました。日々の行持の規則を記し寺院運営などに重点を置いた内容です。本書は卍山道白の序や坐禅用心記などが付録された版本です。紙本版本。縦24.8×横17.9cm。
鎌倉時代 正中2年(1325)
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瑩山禅師が永光寺に於いて修行僧に最後の説法をし、お亡くなりになる
南北朝時代 延元元年(1338)
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足利尊氏が、室町幕府をひらく
峨山禅師と門派の発展
峨山韶碩は、元亨4年(1324)に瑩山禅師の後を継いで總持寺二世となり、以後約42年間住持をつとめられました。その間、總持寺を中心に伽藍の経営をはかるとともに、多くの優れた弟子を育成し、その門下達が代わる代わる總持寺の住職を継いでいくことを定めました。教えを継いだ弟子の順番は記録され、弟子たちはその順番を基本としながら、總持寺の住職を交代して維持していく仕組みが作られました。門下が名誉と負担を分け合いながら一致団結して總持寺を支える仕組みであり、これを輪番住持制度といいます。輪番住持制度は、總持寺門下の多くの主要な末寺にも取り入れられ、曹洞宗の全国的発展の基礎となっていきます。
南北朝時代 貞治3年(1364)
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峨山禅師、門下が交代して總持寺住職をつとめることを定める
『峨山韶碩置文』(貞治3年(1364)) 峨山禅師が總持寺の住持職を選出するための考え方や方法を示した置文です。總持寺運営の基盤となる輪番住持制度の基本的方針となり曹洞宗が全国的に展開する原動力となりました。紙本墨書。縦32.9×横46.9cm。
南北朝時代 貞治5年(1366)
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峨山禅師、多くの弟子を育て、弟子の順序が記録される
『峨山法嗣目録』(貞治5年(1366)) 峨山禅師の法嗣(法を継いだ弟子)を嗣法の順に記したものです。峨山禅師は門弟の育成に尽力し多くの人々が集来しました。峨山禅師の死後、これらの門下が全国に展開し曹洞禅が定着、発展していきました。紙墨本書。縦24×横102.7cm。
室町-明治時代
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總持寺、室町時代から明治時代にかけて輪住制が行われる
『總持寺住山記』(室町時代-明治時代) 總持寺開山瑩山紹瑾禅師から書き継がれた總持寺歴代住持の名簿です。出身地などの記録と合わせ總持寺の全国展開を示す基本資料であり、曹洞宗教団の発展過程を探る基礎資料として重要です。紙本墨書。縦31.3~33.7×横16.8~20.4cm。
總持寺の発展と前田藩の外護
織田・豊臣政権下で大名となり、加賀を領した前田利家は、領内の總持寺を保護しました。利家の没後は正室(まつ)が芳春院と号して引き続き總持寺の外護者となりました。江戸幕府が成立すると、幕府は各宗派の寺院統制のために全国の本山格の寺院に法度を出しました。曹洞宗においては永平寺と總持寺の2か寺のみに法度が出され、これが大本山永平寺・大本山總持寺をいただく今日の曹洞宗のあり方につながっていきます。
安土桃山時代 天正18年(1590)
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前田利家、火災にあった總持寺の再興を命じる
『前田利家朱印状』(天正18年(1590)) 加賀藩初代藩主の前田利家が、火災で伽藍を焼失した總持寺に発した書状です。再興を急ぎ行うことは宗門繁栄のために肝要であるとし怠ることなく作務労役に従事するよう強く命じています。紙本墨書。縦31.5×横48.4cm。
安土桃山時代 慶長4年(1599)
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總持寺を外護した加賀藩祖の前田利家、没する
横浜市指定文化財『前田利家像』(慶長4年(1599)前後) 加賀前田家始祖前田利家の画像です。織田信長、豊臣秀吉に仕え、やがて加越能三国に所領を得ることとなりました。能登總持寺を手厚く遇し火災後の再建にも意を尽くしています。絹本著色。縦101×横50.3cm。 -
前田利家の正室(おまつ)、利家なき後、總持寺を外護する
重要文化財『前田利家夫人像』(慶長4年(1599)~元和3年(1617)) 前田利家の正室まつの画像です。慶長4年(1599)利家が没した後、落飾して芳春院と号しました。頭巾を被り数珠を手にした尼形に描かれています。絹本著色。縦101×横50.3cm。
江戸時代 慶長8年(1603)
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徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府をひらく
江戸時代 元和元年(1615)
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江戸幕府、總持寺に寺院統制のための法度を出す
『總持寺諸法度』(元和元年(1615)) 徳川家康が幕藩体制諸制度の整備において寺院統制のため總持寺に下した諸法度です。これには和尚になるために必要な修行期間、出世転衣、法幢などについて定められています。紙本墨書。縦46.2×横129.8cm。
江戸時代 寛保3年(1743)以前
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江戸時代の總持寺の境内図が描かれる
『能州諸嶽山惣持禅寺図』(寛保3年(1743)以前) 江戸時代に描かれた能登總持寺(總持寺祖院)の境内図です。現存する總持寺境内図のなかで最も古く、当時の諸堂の位置を把握することができる資料として貴重です。紙本著色。縦111.5×横130.8cm。
江戸時代 慶応3年(1867)
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徳川慶喜により大政奉還が行われ、江戸幕府が終わる
近代日本の発展と總持寺の移転
江戸時代が終わりを迎え、明治維新・文明開化の時代を迎えます。總持寺としても急激な時代の変化に対応していくためにも、ついに開創以来の輪住制を終え、選ばれた一人の住持が長期間、住持を勤める独住制に移行していきます。また度重なる火災に見舞われた總持寺は東京にほど近い鶴見の地への移転が検討されました。移転に関しては賛否両論さまざまな意見が出されましたが、移転は実行に移され、現在の鶴見の地から新たな歩みを進めていくことになりました。移転した總持寺には新たな檀信徒が加わり、檀信徒から寄進された多くの文化財が寺宝に加わります。
明治時代 明治3年(1870)
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總持寺が独住制に移行する
『總持寺歴代独住禅師頂相』 明治3年(1870)7月25日、總持寺は歴史ある輪住制を廃止し、独住制に移行しました。 宝蔵館所蔵明治3年2月「本山独住候補者書上書」によると「輪住制の廃止は早急な事であったので、初回は奕堂禅師を含む6名の中から選ぶが、今後は宗門中から人を求め選挙によって決める事」が書かれています。その後、明治3年2月の「總持寺独住一世推撰状」において「加州金沢天徳院旃崖奕堂」が推挙され、勅許を受け同日弘濟慈德禅師の勅号を賜っています。
明治時代 明治31年(1898)
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大本山總持寺(後の祖院)が火災となり多くの伽藍が焼失する
明治時代 明治44年(1911)
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總持寺が鶴見の地に移転する
『瑞応殿の御移転の写真』(明治44年(1911)) 明治31年(1898)、現在の大本山總持寺祖院が大火に遭遇した後、直ちに再建の企画がなされました。しかし、全国の末寺や檀信徒の参詣及び、布教伝道の為、首都東京近郊移転の建白書や請願書が次々と出されました。明治38年に石川素童禅師が貫首位についてからは積極的に移東の建議がされ、鶴見の地への移東が決定し、石川県庁から許可を受け明治40年(1907)に地鎮式を修行し、移転遷祖式を明治44年(1911)11月5日に行いました。また同時に能登の祖廟を大本山總持寺別院とし、復興の大業がすすめられました。
大正時代 大正12年(1923)
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總持寺が関東大震災に被災する
『大本山總持寺全景』(大正11年(1922)) 大正11年(1922)の總持寺全景図で関東大震災前を描いています。鶴見へ移転した直後の境内には、山形総穏寺より移築された本堂(現放光堂)や跳龍室(現虎嘯窟)のほか、仮の僧堂や庫裡があるのみで、早急な伽藍整備が求められました。大正時代には仏殿、紫雲台、香積台など徐々に整えられ、このような伽藍が整備されました。その後大正12年の関東大震災の被害もあり、現在の伽藍配置となったのは昭和時代になってからです。 紙本版画。縦56.4×横76.3cm。
大正初期
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總持寺が新たな檀信徒から様々な寄進を受ける
『鐘鼓楼』(大正4年(1915)) 總持寺は鶴見の地に移転して多くの檀信徒から寄進を受けました。總持寺所蔵の文化財の大部分は古文書であるが、絵画や彫刻、工芸品も少なくありません。中でも村井吉兵衛から寄進された品が半数以上を占めています。明治から大正時代にかけて活躍した実業家である村井吉兵衛は、大正4年(1915)に国登録有形文化財となった鐘鼓楼、また横浜市指定文化財である懸仏を含む多数の仏像仏具を寄進されました。横浜に移転した後の總持寺は、多くの有力な外護者によって支えられ新天地で深く根ざし、更なる発展を遂げました。
大正時代 大正14年(1925)
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瑩山禅師の遺徳を顕彰して大正天皇より常済の号が与えられる
『常濟』(大正14年(1925)) 大正14年(1925)の瑩山禅師600回大遠忌の初日に、大正天皇より下賜された勅額です。新井石禅禅師が宮内庁に於いて恩賜を受け總持寺まで運ばれ、仏殿須弥壇上に奉安されました。現在大祖堂に掲げられた「常済」の額は本書に基づきます。
常済の大師号は明治42年9月8日に明治天皇より号されました。常濟の意味は「常に絶えずして一切の衆生に慈悲を与え、助けお救いなさること」。紙本墨書。縦123.9×横71.7cm。
昭和時代 昭和40年代
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大祖堂の再建
『大祖堂』(昭和40年代) 大本山總持寺では、昭和40年(1965)に二祖大現宗猷国師峨山紹碩禅師600回大遠忌を迎えるにあたり、その記念として大祖堂を建立する事となりました。
大祖堂は一般的に言われる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺型の銅板屋根は53トンに及びます。一人でも多くの人に教えを広めたいという願いが込められています。
昭和時代 昭和49年(1974)
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太祖瑩山禅師650回大遠忌の記念事業として宝物殿が竣工
昭和時代 昭和51年(1976)
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文化財の一般公開開始
令和時代 令和6年(2024)
令和時代 令和7年(2025)
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太祖瑩山禅師700回大遠忌記念事業として總持寺及び總持寺祖院所蔵資料のデジタルアーカイブ化