先人の足跡

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 函館に人が住み始めた時期はいつころなのであろうか。氷河時代が過ぎて暖かくなり、大陸の氷が解けて海水面の上昇が起こり、本州と北海道との間に津軽海峡ができるようになった。それまでの北海道は大陸や本州とも地続きで、マンモスを追い求めた狩人が住んでいた。およそ1万8000年前に海峡ができたころ、朝鮮半島との間にも海峡ができて本州が大きな島となり、大陸から離れた。その数千年後になると青森や渡島半島に旧石器時代人が住むようになり、宗谷海峡もできて北海道は大陸と離れてしまう。
 函館は北海道の最南端に位置しており、人類の移動経路と文化の交流を考える場合には、対岸の本州と密接な関係にあったことがうかがわれる。また、北海道の石器時代人が海峡のできる以前に大陸方面から移動して来たかどうかという問題も興味深いことである。
 蝦夷と呼ばれた北海道に関する記録が世に現われるのは江戸時代になってからである。寛永20(1643)年以後に松前藩で編集した『新羅之記録』や『福山秘府』によって、室町時代に本州から和人が渡って来て居館を構え、かなりの数の人が移住していたことがわかるが、考古学の面から見ると、移住の始まりは鎌倉時代以前にさかのぼり得るのである。
 函館の市街は先端に臥牛山と呼ばれる函館山があって、その名のように大きな牛が横たわっているように見える。さして高くはない山であるが、山裾(すそ)に丘陵が伸びて北に広がり、幕末開港のころは街の中心がこの山裾にあった。北側は低地帯で砂地であるが、対岸の丘陵地帯に細くつながり、かつては地形の項で述べたように高さ30メートル以上もある砂丘が存在していた。函館に先住民族の遺跡があることを最初に知られるようになったのは、函館山の山裾である。幾つかの貝塚がこの山裾の丘陵上にあった。貝塚とは数千年も前の人々が食べた貝殻や動物の骨などが堆積して小高くなっていたところで、大きなものは円形や馬蹄形状の底面を形造っていて、分布範囲は数十メートル、堆積の厚さも1メートル以上に及ぶものもある。貝塚の近くに集落があって、貝殻のほかに当時の人たちが使用した日常の什(じゅう)器や漁労具、狩猟具が発見され、時には人骨が埋葬されていることもある。貝塚に堆積している貝の種類によって海岸の様子を知ることができるほか、動物や鳥などの骨からどんな動物が生息していたかもわかるため、当時の生活を知る手がかりを得るには極めて重要なものである。貝塚の位置は、現在の海岸線から離れた丘陵上に分布しており、貝塚が造られたころは、まだ海水面が高く、海が内陸に入り込んでいたことを示している。
 函館に石器時代人が住んでいたことは、江戸時代から知られていたが、明治になって日本の人類学、先史学に貢献した有名なエドワード・S・モースや、地震学者のジョン・ミルンらが貝塚を発掘して、日本の先住民族がどういう人たちであったかを論じた。そして外国人による東京の大森貝塚と函館における発掘調査がもとになって、日本民族の起源の研究が進み、日本の石器時代研究が発展した。明治12年には地方博物館として最も古い歴史を有する開拓使仮博物場が函館公園内にでき、有史以前の資料が公開展示されて人々の関心を集めたが、昭和になってからは、後で述べるように日本の学者らによって、当時日本で最も古いとされた土器が函館の住吉町で発見されるに及んで、函館の遺跡は、一層注目されるようになった。北海道の先史時代は函館が道南の標準となり、道央や道東・北の文化と対比されたのもこのような研究の歴史があったからで、歴史時代に入った古代の奈良、平安時代の遺跡も湯川から石崎に至る間で発見されている。
 近年になって明らかになったものに、志海苔(しのり)古銭がある。志海苔町の海岸の道路工事で出土した古銭は、前漢の四銖(しゅ)半両銭を含む北宋銭で、その数は推定50万枚であったのではないかといわれ、これを収容していた「かめ」が越前古窯(よう)や珠州窯(すずがま)のものであったことから、室町時代に備蓄されたものであることがわかった。出土地の近くに志海苔館があり、館との関連も考えられているが、全国的に見てもこれだけの古銭が室町時代に埋蔵されていた例がなく、記録に残されていない歴史事実は、貞治(じょうじ)の碑などと共に函館ではどれだけ埋もれているかわからない。
 これから述べる函館の「記録のない世界」は、日本の歴史の中でも特異な地域性を持っているので、時代的な粗筋を説明しておくこととする。