志濃里の鍛冶屋村に家数百有り、康正二年春、乙孩(おっかい、アイヌの男)来て、鍛冶に劘刀(まきり)を打たしめし処、乙孩と鍛冶と劘刀の善悪、価を論じて、鍛冶劘刀を取り乙孩を突き殺す。之に依て夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より、大永五年春に迪(いた)るまで、東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り、者某(しゃも、和人)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起るなり。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。 |
とあり、この騒動の直接の動機は、あるアイヌが和人の鍛冶屋に打たせた小刀の利鈍や価格について口論となり、ついに無法にも鍛冶屋がその小刀でアイヌを刺し殺したことが原因であるとするところから考えると、これまでの交易における、和人の供給する物資の粗悪化や不等価交換に対する、永い間の累積した不信と反感とが、この事件を導火線として期せずして爆発したものであった。
松前氏祖 武田信広
しかも越えて翌長禄元(1457)年5月、東部の酋長コシャマインを陣頭に、いよいよ民族的な復讐心をかりたてて団結し、東は鵡川から西は余市に至る、常に和人が交易に往来する全地域のアイヌが相呼応して一時に蹶(けっ)起し、アイヌ民族と日本人の最初の民族闘争が展開されたのである。かくてまず事件の発端の地たる志海苔に殺到して、小林良景の館を攻め破り、次いで宇須岸の河野政通の箱館を陥れたのを初めとし、更に破竹の勢いをもって道南に点在する諸館をことごとく落とし、残るはわずかに下国家政の茂別館と、上ノ国の蠣崎季繁の花沢館のみとなり、茂別館も重囲の中にあって弧城を守る有様であった。時に花沢館の蠣崎季繁の客将武田信広は、敗走した諸館軍を整えて七重浜に戦い、苦戦のすえ武田信広の強弓でコシャマイン父子を射殺し、ようやく鎮定をみたのは長禄2年6月のことであった。しかも、これを契機として信広は蠣崎季繁の養嗣子となり、しだいに諸館主を糾合して覇権を握り、やがてアイヌ社会を侵略し、松前藩の形成の上に大きな礎石となっている。