掘割および築島

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 しかるに箱館港の施設はこれに応じ得なかった。そこで享和元(1801)年蝦夷地取締御用松平忠明は同役とはかり、内澗町に掘割を設け、その浜手の寄洲を埋立て造船所を設置する計画をたて、官民協力してこの工事を進めるため、名主らに左の申渡をした。
 
当所の儀はいまだ田作もこれ無く、離島の事ゆえ、これでは助命も相成りがたく、入船は当所第一の助成に候処、是迄船作事仮屋と申すもこれなく、大小船共少分の作事にてもわざわざ外湊へ里数遠く乗行、作事致し候に付、不便利のみならず、旦は多分の失費もこれ有り、船方人命にもかかわり候儀に候。これにより此度新たに内澗町通海岸寄洲これ有る場所埋立候て、追々仮屋を建て船引上げ作事成候様に拵え、入掘を以て小船通路も立候はば、追々内澗辺も入船これ有るべく、左候はば当所一体の便利は勿論、此上いよいよ繁栄も疑いなき間、市中一同人夫差出し、寄洲埋立候わば、遠からず仮屋も出来すべく候。其不足の処は公儀より御救いこれ有るべき間、右の趣市中小前の者共心得違いこれなき様、重立候者より能々申含め、一統心を合せ目論見立候様申行うべきもの也。

 
 この工事は極めて順調に運び、その年には、掘割は海汀から南へ70間(1間は約1.8メートル)ほど掘進み、「土出シ堤」も、同じく北に向け、沖出し幅数間、長さ約120間を築設した。新設の掘割は、当時の地蔵町をほぼ南北に分断したので、地蔵町通りをつなぐために橋を架した。この橋が明治の中ころまで存在した栄(永)国橋である。この掘割は、地蔵町やその南側周辺の排水を兼ね、湿潤の地を乾燥させるのに効果があったし、小舟による両岸への荷の揚卸しにも大きな利便を与えた(享和元年・分間箱館全図=425ページ参照=および『箱館蝦夷地廉々之義申上候書付』)。
 更に、官では享和3年、予定のとおり土出シ堤の先から西側を沿い、巾25間長さ50間の築島を築き、翌文化元年に竣工した。埋立の地積は合計2,172坪に及んだというが、築島の面積1,250坪と土出シ堤などの面積とを合せたものであろう。この地には造船場を設け、船舶の修繕新造を行ったという。なお、高田屋嘉兵衛もこの築島の西側に接して825坪の埋立を行っているが、「(文化四年)蔵々拾五戸前、建家弐ヶ所相建、其余造船所之ニ付、造船所取設ヶ候事」(原喜覚『高田屋嘉兵衛と北方領土』)ともある。
 『蝦夷島奇観』、『蝦夷雑記』、『箱館夜話草』などに、松右衛門松右衛門島などのことが築島に関係して所見される。松右衛門とは工楽松右衛門のことで、播磨国高砂の人、松右衛門帆の考案や、嘉兵衛の推挙で択捉紗那を築港したことで知られているが、箱館築島について、どのようなかかわり合いもったものか今のところ明らかでない。
 以上の諸工事は、箱館港発展の基礎をなしたものである。