以上にみたようにこの時代の商品流通上の最も大きな特徴は、幕府自ら流通ルートにも参加したことである。その結果、江戸・大坂間の流通が著しく発展した。江戸との関係は宝暦、天明ころから次第に発達しつつあったが、松前藩の再生産構造の特殊性からそれ程発展し得ず、交易の主体はやはり敦賀、上方におかれていた。ところが幕府直轄によって、従来の流通ルートは大幅に変化し、江戸との交易が非常に盛んになったばかりか、いわゆる東回り航路の発展を招く大きな原因になった。
近世の北海道交易を中心とする海運において、東回り航路があまり発達しなかった要因として、海路の危険性など自然的な条件が挙げられてきたが、これには大きな疑義がもたれる。もちろんそうした要因も含まれてはいるが、基本的には商品流通のあり方の変化によるもので、すなわち松前藩の再生産構造の特徴から藩にとっては、東回り航路の開発を必要とする決定的な要因がなかったとみるのが妥当であり、直捌以来東回り航路が発達してくるのは、幕府の政治的経済的要求の性格によるものである。
このため幕府は早くも寛政11年、蝦夷地御用として政徳丸を交付し、凌風丸を買上げ、次いで浦賀、大畑および様似などにおいて造船、その他高田屋嘉兵衛に命じて大坂で官船5艘を建造、箱館にも造船所を設けて兵庫・大坂から船大工を雇入れて造船作業に従事させた。こうして幕府の支配下にある船舶も数十艘に多きに達し、水主同心組頭格長川(ながかわ)仲右衛門、水主同心露木元右衛門、高田屋嘉兵衛らが統轄し操縦するとともに、これまで太平洋方面を航海する舟子たちの避難港として、伊豆大島の波浮港を修築し、航路の安全をはかった。一方、津軽海峡を通過する本道と本州との航路も、従来は主として津軽の三厩から福山に渡る一線によっていたが、この路線は箱館ならびに東蝦夷地に赴くのに、迂遠であったので、寛政11年南部の佐井または大澗から箱館への渡海を開始して、東部の本線となし、西部の福山~三厩線とともに本道の重要な航路として、箱館のために多大の便益を加え、襟裳以東の航海のために大畑が重要な寄港地となった。