しかるに、外国貿易が開始されるに至って、このような単純な流通形態に大きな変動を来すことになった。まず外国貿易が開始されると、これら海外商人と直接取引をしたのは、旧来の問屋商人ではなく、柳屋藤吉の例にみられるごとく、彼らとは全く関係のない新興ブローカー的小商人たちであった。当時、こうした新興仲買人がどれ程いたものか判然としないが、沖ノ口役所関係文書から、そうした人物をさぐり出してみると次の通りである。
ここに挙げられた人物は、万延元(1860)年外国貿易に関し、正規の沖ノ口口銭の納入をせず、沖ノ口役所にその延納方を願い出た人物のみであるので、恐らくこれ以外にも相当あったものと思われるが、少なくともこの11名が存在していたことだけは確かである。大町の藤吉とは多分柳屋藤吉のことであると思われる。
これらのブローカー的仲買商人たちは、箱館入港の商船(船手)から商品を買取り、外商に売渡すわけであるが、その場合、当時の沖ノ口規定として、沖ノ口口銭2分を上納した上で、更に5分の口銭を運上所に上納することになっていた。ところが彼らは、輸出時の5分の口銭(いわゆる輸出関税)を支払いはしたものの、これまでの内国交易に課せられた沖ノ口口銭を支払わない者が続出するに至った。この沖ノ口口銭の滞納は、直接幕府(箱館奉行所)の歳入にかかわる重大な問題であった。
すなわち安政6(1859)年貿易開始時の総輸出額は、383,486貫551文で、このうち2分口銭は6,902貫758文と計算されていたが、翌万延元年2月現在の延納額は、2,798貫26文に達し、約半額に近い金額が未納金となっていたのである。(『諸書付』)
これには箱館奉行所もよほど困ったらしく、万延元年2月、沖ノ口掛から出された、「外国人売渡口銭之義に付申上候書付」によると、「一体外国人え売渡品口銭取立候義は、仰上げられ済の上取立候義にて、沖之口御主法においては、商人共聊(いささか)苦情申立べき筋にこれなく候得共、元より頑愚の奸商共、此上厳敷取立方申渡候はば、却て外国人え対し如何様の義申聞べきも計り難く、去迚(さりとて)去未年(安政六年)御勘定仕上の義は、当三月中頃迄に出来申さず候はでは相成間敷く、これに加え外国人え売買致し候ものの様子を外見仕候に、何連(いずれ)も奸曲の者多く、御国恩の有難きをも相弁えず、只一己の利得のみ心掛候者故、此上売渡品口銭取立方に付ては、迚も尋常の御所置にては差出申間敷、云々」(『諸書付』)とあって、貿易開始直後だけに、強硬手段に出れば外国人にはねかえり、外交問題にも発展する憂いもあり、それかといってこのまま放置も出来ないという、奉行所側のうろたえぶりがありありとうかがえるものがある。結局この問題は問屋側の責任で取立てる旨に決定されたようであるが、外国貿易が、実質的にはこうした仲買商人を介在して進められただけに、そこから生ずる流通機構の混乱、収税実績の低下など新たな問題が生じてきている。