製鉄

657 ~ 658 / 706ページ
 また、一方箱館地方東部沿岸に産する砂鉄は、早くから注目され、松前藩時代にも2、3製錬を試みる者があったが、いずれも失敗し、その後はこれを顧みる者がなかった。ところがこの時代に入ってから、箱館奉行はこの砂鉄をもって大規模な製鉄事業を行うことを計画し、武田斐三郎にその設計を命じた。

古武井溶鉱炉跡の碑

 斐三郎は五稜郭弁天岬台場を設計したと同様に蘭書から知識を得、来航したイギリス人やフランス人に聞いて、この大事業に取り組んだ。すなわち安政3年、敷地を古武井に選定し、付近の女那川煉瓦製造所および仮溶鉱炉を設け、同4月本溶鉱炉(高炉)および反射炉の建設に着手したが、当時としてはすこぷる大規模なものであった。その費用は両年度で溶鉱炉に2272両余、反射炉に416両2分余を費した。しかし反射炉の計画は経費の関係で放棄し、高炉に全力をそそいだようであったが、それもなお完成しなかったことは『村垣淡路守公務日記』によって知ることができる。それは、大規模の製鉄業は、すこぶる経験を要するばかりではなく「砂鉄を溶鉱炉で溶解することは極めて困難な事業であったからである。当時南部藩では溶鉱炉を設けて鉄を製しつつあったので、万延元(1860)年2月、箱館奉行は南部藩の箱館留守居に頼み、その職工20人の雇入れを依頼し、また、たまたま箱館丸に乗って宮古に停中の武田斐三郎外1名に製鉄作業を一覧させ、その場で雇い入れたいと本藩に申し送らせたが、南部藩は職工不足の故をもってこれを謝絶し、斐三郎らはひそかに見学して帰った。
 このため箱館奉行は操業の措置に非常に苦慮していたが、それでも若干の操業を続けていたらしく、万延元年この地を旅行したイギリス領事ホジソンの書簡に、「古武井の鉄工場で砂鉄を洗っており、その付近で巨砲その他の武器を製造中だった」としるされている。ところが、文久3(1863)年6月14日の暴風雨の節、高炉は大破し、鞴(ふいご)を動かす水車小屋や居小屋も圧(お)しくずされ、その被害は実に大きく、これを新規に築造するには莫大な費用を要し、当時の財政ではこれに応ずることができず、かつ砂鉄の溶鉱には高度の技術を必要とするが、その目算も立たないところから、この歴史的な溶鉱炉はそのまま放棄されてしまった。なお仮溶鉱炉を引き受け、原料を高炉に供給した箱館弁天町松右衛門は、近在赤川村に溶鉱炉を造ったが長くは続かなかった。