種痘の普及

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ゑぞ人うゑほうそうの図

 安政4年箱館奉行アイヌ天然痘で多く死ぬのを憂い、桑田立斎を東蝦夷地に、深瀬洋春を西蝦夷地に遣わし、アイヌ、和 人の別なく種痘を施し、翌5年にも洋春を斜里および北蝦夷地(樺太)に、井上立長を千島に派遣して種痘をさせた。この年の3月には、箱館近郊の諸村からも実施の請願があったので、田沢春堂に命じて巡回種痘を行った。これらの巡回種痘はわが国最初の大量種痘であった。深瀬洋春は父が羽州米沢から箱館に渡った町医師で、洋春は箱館で生まれた。江戸に出て竹内玄同、佐倉の佐藤春海に学び、安政4年慕命を受けて立斉と共に蝦夷地の巡回種痘を機に、郷里箱館に落着き、万延元年箱館医学所頭取に挙げられ、文久元年には武田斐三郎の指揮する亀田丸に乗って露領ニコライエフスクに至り、同地長官の病を治した人でもある。