遊里

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 安政初年、茶屋は21軒となり、ほかにも11軒が免許を得ていた。酌女は100人余りだったが、開港とともに外国人相手の商売が必要となり、安政5年に願書を出して幕府の公許を得たのが「売女渡世」である。もと茶屋は前記21軒が料理茶屋といって、酌取女をおいて客を取り、また芝居、軽業などの興行の際、仕出しもして業とし、11軒は客引手宿とか下宿とかいい、料理の酌取りだけで音曲はできなかった。その料理茶屋が公然と売女渡世に変り、山ノ上町茶屋町は江戸吉原に模して廓(くるわ)を造り、坂の突当りに大門を設けた(この坂を「見返り坂」と呼んだ)。廓は官から金を借り、外国人のために異人休息所とか異人揚屋と呼ばれる三層楼も建てられた。見番も設けられ、線香代を定め、芸者の養成につとめ、廓以外の芸者を禁じ、隠し芸者が見つかると廓に3年間無給奉公させられた。芸者には江戸言葉を習わせ、行儀を教えたが容易でなかったという。当時の芸者を評した狂歌に「つかみ鼻、立小便とオケツネと、イケスカナイはアメリカの客」とある。
 酌取女は「がの字」と呼ばれ、これは遊女の価200文で縄に通した銭の形が雁の字に似ているからだとか、香木の伽羅の伽が濁ったのだとかいわれる。このほかに密娼もおり、内澗町では「風呂敷」、大町では「薦冠(こもかぶり)」、弁天では 「車櫂」、谷地頭では「狐」などと呼んだ、箱館奉行は安政3年5月から、密娼を見つけしだい蝦夷地の開発場にやることにしていたが、山ノ上町に遊廓ができるとここへ送り、10年間無給で奉公させることにした。
 座敷で興じられる唄は、以前は、甚句、おけさ、追分などであったが、このころは都々逸、端唄などが盛んになっていた。遊楽地は山ノ上町だけではなく、東築島には文政のころから山ノ上茶屋5軒の出張りがあり、これがのち「島の廓」となったし、五稜郭ができると鍛冶村にも御用茶屋ができた。また谷地頭も『蝦夷実地検考録』には「花木を植え、泉水を環らし、亭榭を設けて客を延く」、「函府第一の勝境とて、貴賤、僧俗を論ぜず妓を携え、酒を載、茗を煮、棋を囲む。絃歌の声紛々たり」とある。