ところが、仁和寺宮嘉彰親王が総督拝命を固辞したため、箱館裁判所は、総督不在のまま副総督清水谷公考を中心にその初動を開始した。当面の重要課題は、旧幕府箱館奉行所からの政務引継であった。先ず4月14日、松前、秋田、津軽、南部の4藩の京都留守居役を清水谷邸へ呼び出し、この日太政官から蝦夷地警衛と旧幕府箱館奉行所の金穀等の保全を命ずる達書が4藩へ対して出される旨を伝え、協力を要請した。前記4藩と仙台藩(仙台藩のみ15日達)は、翌15日、警衛地域に対する思惑などから足並みは揃わなかったが、箱館裁判所設置の先触れ役に藩士を付き添わせることは承諾し、達書の趣を拝命する旨の「請書」を太政官へ提出した。次いで17日には、旧幕府箱館奉行所の諸役人へ対し、旧幕府の金穀並に物産を警衛諸藩へ引継ぐことを命ずる達書も出されている。
元幕府箱館役人共へ
今般箱館裁判所御取建総督副総督被差向候、就テハ仙台佐竹南部津軽松前等へ同所警衛被仰付候間、旧幕府ヨリ預置ノ金穀并ニ産物等倉禀右藩々へ可相渡候、此旨申達候事 (「官中日記」『復古記』三)
同時にこの日、これまでの開拓論議を取りまとめた7ヶ条の「覚」、蝦夷地開拓基本方針が示され、(1)蝦夷地開拓の事は箱館裁判所総督に委任すること、(2)蝦夷の名称を改め地域を分けて国名をつけること、(3)諸藩の開拓熟練者は新政府へ雇い上げ総督の管轄下とすること、(4)蝦夷地の諸税は開拓入費に充てること、(5)開拓出願の諸藩へ土地を割渡すこと、(6)カラフトに最も近い宗谷付近に1府を立てること、(7)カラフトの開拓は蝦夷地開拓の目途がついてからとすること(「官中日記」『復古記』3)などが確認された。開拓という事は、新政府にあっては慶応4年1月17日に初めて国政を担当する制度が成立したとき(三職分課制)から、外国事務総督(すぐに外国事務局督となり、「政体書」体制では外国官知官事となる)に拓地育民という形で属している業務であるが、蝦夷地の開拓に関しては地方行政機関である箱館裁判所に委任されたわけである。次いで、吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞(のち基と改名)の3名が先触れ事前調整役として箱館へ派遣され、蝦夷地警衛を命ぜられた5藩から藩士が1人ずつ付き従った。彼らは先導役を買って出た松前藩の周旋により、閏4月4日松前に上陸、7日箱館へ向かった。10日に杉浦兵庫頭に面会(箱館の本陣宿で)、箱館裁判所が設置され総督、副総督が近日中に下向する旨を伝え、同時に旧幕府の金穀、倉廩、器財等の引渡封印、下僚の箱館裁判所への任用等引継手続についても伝達した。ここに初めて新政府の意志が直接旧幕府箱館奉行所に伝えられたのである。
今般皇政復古ニ付箱館に於テ裁判所御取建、総督副総督等被差置近々御下向可相成候、依之為先着 |
吉田復太郎 |
村上常右衛門 |
堀清之丞 |
右ノ者并五藩人数等被差下候間、其方支配仕来候元幕府蓄積ノ金穀倉廩機械等、立合ノ上、無子細引渡封印付置、総督御下知ヲ奉待、尤モ是迄在番ノ吏士ハ、御下着ノ上夫々御任用可被為在候間、上下一同安心致シ決テ倉卒ノ挙動無之様可被申諭候、自然拒命不恭ノ儀も有之候節ハ、屹度厳重ノ御沙汰可及候間、此段篤ト相心得可被申候事 |
裁判所 |
権判事 |
井上石見 |
四月 長秋 花押 |
岡本監輔 |
徇 同断 |
杉浦兵庫頭殿 (前掲「日次記」) |
これを受けて、杉浦兵庫頭は翌11日「触書 今般皇政復古ニ付箱館裁判所御取建総督副総督等近日御下向ニ可相成御達シモ有之間、右御下向相成候上ハ当地御引渡申候条相達シ置候通聊動揺不致、家業出精可致モノナリ 右ノ通小前末々マデ不洩様可触示モノ也」(「函館公文集」巻3)と、近日中に箱館裁判所総督下向する予定と、箱館を総督へ引継ぐことになった旨を市在に触れ出し、自身は五稜郭の役宅を出て組頭宮田文吉の屋敷(文吉は山村惣三郎宅へ移り同居)に引き移り、吉田、村上、堀の3人が立ち会いの上、金穀武器蔵に封印をした。