一方、海軍は甲鉄以下が払暁、陸軍と共に行動を開始した。まず陽春は箱館を挾撃すべく大森浜へ向かい、甲鉄と春日は陸軍の奇襲上陸作戦援助と弁天岬台場砲撃のために、奇襲部隊を乗せた豊安、飛龍と共に弁天岬台場沖へ向かった。朝陽と丁卯は亀田新道へ向かった陸軍の援護のため七重浜沖へ向かった。
これを迎え撃つ脱走海軍は、この日を迎えるまでに千代田形は弁天岬台場沖で座礁し(漂流後新政府軍が捕獲)、回天は5月7日の海戦(この時は蟠龍は機関故障で回天のみが応戦)で機関を破壊されて沖ノ口近くの浅瀬で浮台場となり、軍艦は機関の修理を終えた蟠龍ただ1艦となっていた。午前3時頃、朝陽、丁卯が七重浜沖から陸軍援護の砲撃を開始して戦端が開かれた。朝陽と蟠龍の砲撃戦は熾烈をきわめた。午前8時頃、蟠龍艦の砲手永倉伊佐吉の放った一弾が朝陽の火薬庫に命中、一瞬にして朝陽は沈没した。多くの乗組員が艦と運命を共にしたが、観戦中のイギリス軍艦ペール号からいち早くボートがおろされ、重傷の艦長中牟田倉之助を始め多くの乗組員が救助された。甲鉄と春日は、弁天岬台場砲撃を一旦中止して蟠龍へ鋒先を転じ、さらに朝陽乗組員の救助を終えた丁卯も蟠龍攻撃を開始した。この頃遅れて青森を発した延年も到着、朝陽轟沈で意気上がる蟠龍も、追われて港内の奥へ退き、遂に弁天岬台場脇の浅瀬に乗上げて砲弾を撃ち尽くした。船将松岡磐吉以下はボートで弁天岬台場へ退去した。浮台場となって奮戦していた回天も、新政府軍奇襲部隊が箱館を占拠するに及んで背後からも銃撃され、さらに大森浜へ廻った陽春からも砲撃を受けた。このため回天は大砲を陸側へ移動して応戦したが、遂に退却と決し、荒井郁之助以下は上陸して五稜郭へ退いた。ここに脱走海軍は全滅、回天、蟠龍の両艦には火が放たれ、この火は7日間も燃え続けたという(「箱館軍記」『函館市史』史料2)。
弁天岬台場からみた箱館市中 開陽乗組製図方岩崎新吾筆
また、箱館奇襲作戦を担当する部隊は、10日夜、豊安(箱館攻撃部隊乗組)と飛龍(弁天台場攻撃部隊乗組)に分乗、翌朝3時頃富川村沖を発し、夜明け頃箱館山の裏手へ到着した。箱館攻撃部隊の久留米、長門、薩摩の藩兵は、陸軍参謀黒田了介の指揮のもと、寒川から上陸し絶壁をよじのぼり山頂に出た。山頂にいた若干の脱走軍監視兵は驚いて遁走、6時過ぎには山頂を占拠した。この時、箱館にあって新政府軍の諜報活動などを務めていた遊軍隊(当時の隊長は京都出立以来清水谷公考に近侍していた藤井民部)が、箱館山薬師堂でこの奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたった。遊軍隊は、箱館八幡宮宮司菊地重賢ほか多数の市民が参加した(箱館八幡宮に残された「賞賜禄」では113人と1団体)ゲリラ部隊ともいえる組織で、脱走軍の市中掛の下役や弁天岬台場に隊士として潜入した者もいた。脱走軍側の記録では、この遊軍隊の面々は「返り忠の者」の枠に入れられている。
弁天岬台場攻撃部隊の長門、岡山、津、津軽、徳山等の藩兵は、山背泊から上陸し、弁天岬台場へ向かった。
箱館山に新政府軍現わるの報に接した箱館奉行永井玄蕃は、弁天岬台場に入り守備を固め、伝習士官隊長瀧川充太郎が新撰組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かった。しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜の陽春からも側面攻撃されて、一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退した。箱館山からの攻撃で市街地を制圧した新政府軍は、兵を一本木関門にとどめ、五稜郭、千代ヶ岱陣屋と対峙した。土方歳三は、箱館を奪還すべく一隊を率いて一本木関門からの進撃を試みたが、土方自身が腹部を撃たれて落馬絶命した。この報を受けた五稜郭では、松平太郎が諸隊を率いて再度箱館奪還に向かい、数度接戦に及んだが、五稜郭へ引揚げざるを得なかった。
一方、弁天岬台場への1隊は、甲鉄、春日からの援護砲撃の中、台場を猛攻したが遂に落とすことはできなかった。しかし、箱館市中は新政府軍に制圧され、脱走軍は、五稜郭、弁天岬台場及び千代ヶ岱の津軽陣屋跡に分断されて立籠もるだけとなり、失地回復の可能性はまったくなくなった。
この日の戦いは、「海陸数十ヶ所の戦に、晴日なりしが、火薬の煙空に棚引、天地是が為に朦朧たり」といわれたほどで、箱館市民へ甚大な被害をもたらした。家屋損傷、死人怪我人の続出、さらに火事と続いた。この火事は3日3夜続いたという(「明治物語」)。800戸余が灰燼に帰し、原因が弁天岬台場兵士の放火だったため、後々脱走火事といわれた。この火事の被害の復興ははかばかしくなく、明治5年になってから復興援助のため弁天町、大町、山上町ほかへ賠償金(925戸へ総額2万5581円余)が支払われた程であった(「開公」5721)。