東浜町海岸より税関を望む 北海道立文書館
これまでは、函館の都市形態を箱館開港における外国居留地の埋立などから説明してきた。それではこのような実態が内部的にはどのような影響を与えたかを考えてみたい。具体的には、外国商人による貿易の取締りにあたる運上会所の設置と、海岸線の連絡上の道路の整備が考えられる。
この運上会所が、産物会所とともに大町の御作事場に建設されることに決まったのが安政5(1858)年10月4日であった。同年の12月20日に両会所建設の入札があり、1423両にて伊勢屋伝蔵代伊兵衛に落札された。翌年の1月29日に工事の増加分384両余の入札があり、2月20日にはこれらの工事に着手した。さらに同年6月26日運上所附属土蔵建築地所の埋立が690両で、7月に土蔵2棟が1430両でともに伊勢屋伝蔵伊兵衛に落札された。8月11日に運上会所事務室落成。万延元(1860)年7月1日運上所波止場が落成し、10月20日に全体で4551両をかけた運上会所産物会所建築工事が全部落成したのである(『函館税関沿革史』)。
その後慶応二(1866)年に業務拡大と関連して「新規に築出運上所脇貸蔵地所等築立候ニ付、御入用金七千九百五拾五両余御増方に相成」(元治元年「文通録」道文蔵)とあるように貸蔵の用地として大規模な埋立を行なっている。
この頃になると、外国人居留地と運上会所あるいは町家地区と沖の口役所などを結ぶ海岸道路が必要となってきた。当然海岸道路が一挙に出来たわけではなく、いくつかの目的によってなされた埋立の集積により整備されたと考えられる。ひとつには、安政6(1859)年の「拝借地御用留」にみられるように運上所普請地の脇の藤野喜兵衛や井口兵右衛門などの有力商人による埋立や、町有地確保のための町内組合による埋立があった。
その後、地蔵町築出地を居留外国人に貸渡した以後の慶応2(1866)年8月において「箱館表港内御普請御取締として、海岸道路築出波止場等御取建の積、先般御下知相済候に付当四月中申上候通、右御普請の儀仕越為取掛此程中迄に凡五分形も出来候」(元治元年「文通録」道文蔵)と海岸道路の整備がはじめられ、この時点で、約半分位工事が進んでいた。そして、この埋立工事は箱館奉行より新政府へと引き継がれることになり、杉浦兵庫頭名で「海岸道路地立方書類御引渡目録」が作成された(慶応4年「諸書拾遣編冊」道文蔵)。
この引き継ぎの段階で埋立工事がどの程度進んでいたかは「海岸御築立地御入用調」によると請負高5万3681両2分永50文2分のうち「凡五分四厘出来形」とあるように約半分強といった程度であった。この割合は前記した「凡五分形も出来」と数字的にあわないが、その理由は慶応2年の夏に台風によってかなりの被害を受けたためと思われる(前掲「文通録」)。新政府は、この工事の残りの部分の積算を御普請差配人喜三郎に依頼し、2万6189両2分永114文4分の入用高を得ている。この工事の経費については、これまでに出来た弁天町、大町、地蔵町の埋立地を払い下げその代金によることにし、もし不足の場合は一時運上会所より流用することも考えられた(前掲「諸書拾遣編冊」)。
この普請は海岸線の変更をもたらし、沖の口役所などでは新たな沖への埋立が必要になり、明治2(1869)年に470坪の埋立が行われている(明治2年「沖の口公務日記」)。
その後、海岸道路に関連しての大町海面の埋立は明治3年3月18日付の「右は海岸地尻の地自分入費を以埋立皆出来の上、道幅五間相除き地尻残地の分永代沽券地に被仰付候旨被仰渡」(明治3年「諸用日記」)のとおり地元商人たちの費用で行われ、道路を除く土地は彼らに払い下げられた。同様に内澗町の海面埋立も藤野喜兵衛他13名の商人の費用によって明治3年4月より着工し、九月中に竣工しその後払い下げられた(明治11年「第十五大区五小区東浜町築立の儀御尋ニ付申上書」)。
以上から、海岸道路の普請は開港後の安政期より個々の商人や町会所などの埋立にはじまり、大町築出地や地蔵町築出地などの大規模埋立を媒介にして、慶応年間の海岸道路築立御普請の事業へと転化し、それが新政府へ引き継がれ、有力商人の参画も受けながら明治3、4年頃に竣工したのである。