契約要領によれば、会社側の昆布の購入価格は、その年の昆布の市況や産地の収穫予想高を参考に、会社側と組合側の協議によって決められたが、前貸金の貸付けに際し、生産者側は、組合毎に組合役員立会いの下に、個々の生産者の収穫予想高を査定し、これに値立会議で決められた価格を乗じて、その60パーセントに相当する金額の範囲内で前貸金を会社に請求することになり、これを受けた会社側は、現地調査を実施し、請求額を認定した後、現金、あるいは需要品を貸与することにしていた。
表6-34 明治23年日本昆布会社より各組合への前貸金高
組合名 | 前貸金額 | 貸付度数 | 月 日 |
上 磯 室 蘭 静 内 三 石 浦 河 様 似 幌 泉 広 尾 釧 路 厚 岸 浜 中 根室・花咲 国 後 計 | 3,600 1,500 6,702 1,745 12,904 4,247 27,051 8,000 39,604 21,862 43,600 30,896 26,604 228,315 | 1 1 2 2 2 2 2 2 3 3 3 4 2 | 6.19~7.11 6.20 6.6~6.30 6.14~6.30 6.24~7.26 6.2~7.12 6.12~7.6 6.11~7.26 6.10~7.16 6.10~7.16 7.28~8.1 7.17~8.18 6.29 |
『巡回復命書』より作成.
前貸金については、組合全体が連帯責任を負い、全収穫物を担保とすることにによって貸し倒れに伴う会社側のリスクを防ぐ形をとっていた。この前貸金の金利は年1割2分であり、当時の函館の市中金利と比較すると、銀行の場合が1割3分5厘、個人金融では1割3分5厘~1割5分であり、昆布会社の金利は低利であった。なお22年の前貸金は約19万円、翌23年には22万8000円に増加しているが、地区別の前貸金の貸出し状況は表6-34にみられるように、釧路から国後に至る道東地帯の前貸金が総額の71パーセントを占めている。また会社創業時の22年には、資金が不足し、田中銀行からの借入で前貸金を支払っている。
では昆布会社開業後の昆布の価格はどのように推移したであろうか。まず、先に述べた22年の最初の直立会議における協定価格をみると、新冠以東、国後に至る14郡の価格は100石につき、上等の長切昆布が370円、並等で277円50銭、室蘭、白老、上磯、幌別4郡の価格は、上等が325円、並等で243円75銭に決めれらている。規約によれば、価格は産地別に決められることになっていた。だが、この年の値決めでは、道南の一部を除き、統一価格で決められている。このことは、発足当初から産地間に価格差を設けることによって、生産者の足並みを乱し、ひいては組合連合の弛緩を招くことに対する配慮とみられるのである。
こうして決められた21年の価格を函館の相場に比較すると、長切昆布上等100石当たりの平均価格は、函館では350円。これに対して、22年の昆布会社の購入価格は20円高の370円となり、かつ、この価格は、産地渡しの価格であったから、生産者が従来負担していた輸送経費分がこれに上積みされ、生産者の手取分は前年を上回る結果となった。そして、このような価格の上昇はその後も続き、23年には上等昆布で410円、24年には420円になった。
表6-35 日本昆布会社の昆布購入価格の推移
『日本昆布大観』による.
一方、昆布の主要な輸出先となる上海市場の価格をみると、日本昆布会社の直輸出開始前の21年に615円であった上等昆布が、開始後の22年、23年には839円、24年には768円に低下しているが(前出『日本昆布大観』)、過去数年間低迷していた昆布の産地価格や需要地の価格が、連合組合と日本昆布会社による一元集荷と直輸出により上昇することになった。価格挽回を目的にした昆布の一手販売は、開業早々、所期の目的が達成されたことになる(表6-35)。
こうして、従来函館の海産商や清国商人の支配下にあった道内の昆布流通は、昆布会社の登場によって一変し、道内産昆布の80~90パーセントが同社に集荷されることになったが、同時に昆布の輸送においても、外国船に変わって国内の汽船が使用されるようになり、道内輸送では金森回漕組や釧路汽船会社の船が使われ、上海への輸出には日本郵船の汽船が当たり、昆布会社の直輸出は、わが海運業界にとっても大きな利益をもたらすことになった。
当時のこのような状況について在函イギリス領事は、明治22年、横浜の同国公使宛の報告のなかで「昆布の総輸出の七分の六は日本人によって直接、残りは清国商人によって船で送られた。これはつい最近まで、その大半は清国の商人によってなされていたものであった。」と述べ、翌23年には、「それまでヨーロッパと清国の商人が昆布輸出ではかなりのシェアを占めていたが、昆布を取扱う目的をもち、主に東京の資本家によって創立された大規模な日本の会社(日本昆布会社のこと-著者)が、昆布輸出を自己の手中に収めることに成功し、同時にかってそうした取引に精通していた外国商人の得ていた利益を得ていることを付け加えよう」と報告している(『イギリス領事報告』国立国会図書館蔵)。
しかし、一見して成功したかにみられた一手販売、直輸出には問題がなかったわけではない。それは、後に日本昆布会社の経営危機をもたらす遠因になるものだが、道内の昆布組合が、必ずしも組合の一手集荷に協力しうる体制になかったことである。
たとえば、厚岸海藻改良組合の場合、生産者71人のうち46人が昆布会社の前貸金を借りているが、残り25人は会社の前貸を受けていない。つまり前貸しを受けない生産者には、組合集荷ルート以外への販売の道が開かれていたとみられるからである。現に、組合に加入することなく、函館の海産商や清国商人に販売するものも少なくなかったようである。たとえば、三石の小林重吉は、三井物産から資金援助を受け、同社に委託販売を行っている(田中修「場所請負制度の解体と三井物産」『経済論集』第8号)。
また、浜中組合では、「漁業と昆布採取を兼業ある等は早春漁業に雇入たる人夫其他諸道具とも悉く昆布採取に兼用するに付無資力なる我々漁業者は概鰊〆粕を昆布と付帯したる青田売約をなし漁業資金を借出す一助を失し大に困難を来たすべきに付昨冬組合中我々無資力者は此事に付種々協議したるも良法を得ず去迚会社には定則もありて容易に出金は出来ぬことも承知致し居候へ共万一にも無資力者を助くるの御良法もあらは我々も幸福あり……」(明治23年2月5日「北海」)とあり、生産者が、にわかに、海産商の仕込関係から抜け出し、連合組合の一元集荷に協力しえない状況にあることが述べられている。