中川は本州諸地域における採氷事業を軌道に乗せられず、目を北方に転じた。中川は青森で事業着手する前年に函館で氷の集荷をしていたのである。しかしそれは事業といえるものではなく、単に現地での集荷行為にすぎず、しかも函館を採氷地として意識していたわけではなかった。明治4年ころ作成されたとされる文書には「…六年目(明治二年・編注)冬夷地ヨリロシアニ続キ候地方ノ堅氷有之由、誠ニ和船ニテ毎度手違仕候ニ付、英ノ帆前船すたしぎト申ス船ヲ雇入、彼ノ地ヘ向ケ遣シ候処、風並不宜候而箱館ニ錠泊イタシ、其辺ニ有之候雪交リノ氷ヲ買集メ候処、賊兵ノ歩卒共氷切取リ候人足ニ申掛リ莫大之酒手ヲネダリ候ニ付、人足恐縮仕リ持寄不申候ニツキ不得止僅ニ百噸積入帰帆仕候…」(香取国臣編『中川嘉兵衛伝』)とあり、中川は函館より以遠の地にて採氷を試みようとしていた。しかしチャーター船が天候不順のため目的地に向かえず函館近傍での氷を積み出したが、雪交りのため商品として販売することはできなかった。
ところで函館における採氷はいつ頃から行われていたのであろうか。『函館沿革史』には文久年間に蔵前の池からの切り出しをその濫觴としており、また『函館区史』には慶応年間に居留英国人のブラキストンや新潟出身の平野某らによって亀田川、願乗寺川の川筋を利用して試みられたこともあったとされている。また安政4(1857)年12月20日にはアメリカのライスが七重浜ゴミ川が氷室の建設場所としてふさわしいとしていることなどが資料に見えている(「村垣淡路守公務日記」『幕外』付録)ことから函館は開港場として外国人の到来があり、氷の利用についての知識もある程度は知られていたと考えられる。このため開港を契機に採氷はある程度行われていたと考えられる。また明治3年2月柳田藤吉は生魚を東京へ出荷するにあたり、鮮度維持のために願乗寺川から採取した天然氷を利用し、手船の致遠丸にて輸送させた。柳田は氷が商品として高価なものであるのを知っていたので、それを盛夏に販売しようと考えた。ところがこのことを知った横浜の外国商人は危機感を抱き、これを買収し、横浜港に投棄して商品価値はないと宣伝して自分たちの営業を守ったということもあった(「柳田藤吉翁経歴談」)。
柳田藤吉は回想談では以上のように述べているが、中川と岸田銀次(後に吟香)連名による明治3年8月の「上書」(『大隈文書』早稲田大学蔵)によれば、事情はやや異なるようである。この上書は氷売り捌きにあたっている外国人を排除すべく諸方策を宛名人へ依頼している内容のものであるが、それによれば明治2年には「内外商人共ヘ売捌相応ノ利益ニモ相成」かつ「宮中モ御用被仰付」と述べ、ある程度は氷販売がなされたことが知られる。ただしこの氷の産地は特に触れられていない。そして明治3年にも同様の商売を行おうとしたところ、前述の通り青森産の氷を便船の関係で市場に持ちこむことができず、この年の夏は「一塊之氷モ売捌不仕」という状態にあった。ところが横浜では、アメリカ産の氷を年々輸入し販売している横浜居留地42番のボルベッキ(バージェス&バーディック商会のこと。同社は1870(明治3)年のジャパン・ヘラルド発行の「人名録」(寺岡寿一編『明治初期の在留外人人名録』)には42番に「New house」という名称の屠畜と仲買店を開き、隣地の43番に「Ice house」すなわち氷室を所有していた)は他に氷売り捌きの者がいないのを見て暴利をむさぼっており居留外国人からの反感を買っている。このため横浜に出入する外国船の代理店から明年は中川たちと契約することを希望し、また横浜のイギリス病院や駐屯団からもそうした申し入れがなされている。ところがボルベッキは函館の柳田藤吉と明年1000トンの購入の契約をしているが、内国産物の利益を外国商人の手に渡すのは残念であるので当方で大量に仕入れてボルベッキと競争したい。そこで横浜のみならず、東京でも販売するため築地と函館に貯蔵場所を造りたいので各関係方面への助力を依頼したいという内容のものであった。
また明治3年10月の両名による「上書 氷室献白」(前掲『大隈文書』)には「今年ハ渡島箱館近辺ニ於テ氷製造場并ニ氷囲場取立清浄潔白ノ氷取囲置夫ヨリ横浜ヘ取寄東京ヘモ氷室一ヶ所」建てて、宮中御用に応じるために、函館氷製造場及び東京氷室に「御用」の表示をしたいとある。これまでの流れからいえばここで「今年ハ」と強調しているくだりから函館での事業開始を明治3年とすることができよう。しかし函館氷製造場を五稜郭と特定することはできない。というのも明治3年3月に内澗町の伊藤良三が五稜郭の氷切取方の願書を提出し、それが許可されて請書を出しているからである(明治3年「市在請証文留」道文蔵)。ただしこの伊藤に関しては不明ではある。むしろここでの函館氷製造場とは明治6年1月の中川の専売願書のなかで触れられている願乗寺川の野辺をさしているのではないか。しかし中川は明治2年の場合とは異なり、この時点以降は函館での可能性にかけていたのではないか。
再び明治6年の願書を見ると「有川辺大小沼等ヘ人数ヲ配リ、且願乗寺川ノ野辺に小潴ヲ補埋ヒ数十筒ノポンプヲ以テ昼夜ニ水ヲ張リ初冬ヨリ寒ノ半バ迄尽力勉強仕候ヘ共、水道ノ故障ヲ生ジ遂ニ成功不仕、又場所ヲ五稜郭ニ転ジ日夜苦身ヲ不厭寒風ヲ雪中奔走イタシ、遂ニ堅硬透明実ニ玻璃状ノ氷数百噸ヲ得」たとあり、明治3年冬に五稜郭で着手し、翌明治4年の厳冬期に結氷を見て良質の氷であることが確認できたことが述べられている。五稜郭で取り組むことになった経緯は不明であるが、その開始には函館の居留外国人の助けがあったようである。柳田の回想によれば中川は函館居留のブラキストンに相談し、英国人ジョージを雇い入れ氷製造に成功したとある。このジョージとは豊川町でトムソンと共同で造船業と食肉販売業を行っていたジョージ・ビューイックのことである。「氷売捌高並諸入費略記」(『井上馨文書』国立国会図書館蔵)には明治6年の諸経費の見込書の中に「箱館在留タムソンピョーリ雇入ノ給料 四〇〇弗」とあってビューイックだけではなくトムソンも係わりがあったようである。両人は肉商を営んでいた関係から氷についての知識を持っていたと考えられ、技術顧問として働いたのであろう。また氷の製品化に伴い、当然その保存施設が必要となってくるが中川は豊川町に氷室を建設した。それは大隈に宛てた上書などから判断して3年中のことと考えられる。いずれにしても中川は事業着手8年目にしてようやく輸入氷に対抗しうる商品化に成功したわけであるが、五稜郭の成功に至るまで数々の辛酸をなめたあげく亀田川を水源とする好水質を持つ五稜郭に出会い初期の目的を果たすことができたのである。